覚醒(2)
俺は上昇しながら体を右に捻り、穴の壁面に沿って空中を駆け抜けた。光井君の頭が動かないように、手に力を込めてしっかりと押さえる。
穴の淵から、雛香ちゃんがこちらを覗き込んでいるのが見えた。隣では美代が片膝をつき、雛香ちゃんの背中に手を添えている。その姿が、あっという間に眼前へと迫ってくる。
俺は頭を持ち上げて体を反らし、速度を上げて上昇を始めた。
頭上にいた二人が、足下へと流れ去っていった。俺は体をくの字に曲げ、速度を緩めて美代たちのすぐ後ろに狙いを定める。
糸で吊られた体を降ろすように、ゆっくりと慎重に降下していく。やがて足が地面に着くと、俺はそのまま右膝を立ててしゃがみ、光井君の頭を脚の上にそっと乗せた。
「大丈夫か?」
光井君に話し掛けた俺は、自分の声が妙にくぐもっていることに気付いた。理由を考えようとした矢先に、光井君が僅かに身を捩る。俺は疑問を頭の隅に追いやり、光井君の顔を見下ろした。
苦しげに顔を歪めた光井君は閉じていた瞼を静かに開き、口を開いてから小さく首を縦に振った。
「美代!」
俺は背後にいる美代に大声で呼び掛ける。美代は素早く俺の傍らに駆け寄ると、光井君の顔を覗き込んだ。
「えっと……このあと、どうすりゃ良いんだ?」
「ま、まずは止血しないと……」
ぎこちない会話をしつつ、美代は腰の辺りに手を掛け、どこからか小さな銀色の筒を取り出した。右手に持った筒の側面に親指を押し当て、上に向けて広げた左手へと静かに傾ける。筒の中から乳白色のとろりとした液体が滴り落ち、指の上へと覆い被さっていく。
美代は筒を元の位置に戻すと、液体を纏った手で光井君の頭部にある傷をそっと撫でた。円形に塗り広げられた液体が、淡い緑色の光を放ちながら固まっていく。やがて完全に固まった液体は、小学生の頃に使っていた接着剤が乾いたものとよく似ていた。
「それ、何だ?」
「血止めの薬……みたいなものかな。でも、元の場所に戻ったら消えちゃうから、早めに病院へ連れて行かないと……」
だんだんと小さくなる美代の声に耳を傾けながら、俺は光井君の顔に目を落とす。気のせいかもしれないけど、表情がほんの少し穏やかになった気がした。さっきの液体で、痛みも少しは和らいだのだろうか。
(……っ!)
光井君を支える右足が鈍く痛んだ。痛みから逃れようと身を捻ると、足下が波うって映り込む景色が微かに歪む。
踝の辺りまでが、茶色く濁った水に浸かっている。無我夢中で気付かなかったけど、水溜まりに飛び込んでしまったらしい。跳ね散った水滴が、足を這うように滴り落ちて――
(え……)
俺は息を呑んで、水滴をじっと目で追った。膝下を撫で、脛に細い筋を描きながら、水滴は水溜まりの中へと吸い込まれて消える。
揺らめく水面に映し出された自分の姿に、俺は呼吸すら忘れて目を奪われた。
頭部が、艶やかな銀色の金属に包まれている。
表面には黒い線や赤い光が複雑に絡み合い、この世のものとは思えない不思議な模様を作り出している。V字に近い形状のバイザーが目もとに被さり、口元も黒っぽいマスクのようなものに覆われていた。気のせいか、常に漂っていた不快な臭いが幾らか和らいでいるのは、このマスクのおかげだろうか。
足下へと視線を落とし、全身を撫で上げるように自分の体を観察する。ソフトレザーのように艶のある黒い衣服と、肩や胸部を守る銀の鎧が、全身を覆っていた。体のあちこちを、銀色の筋や赤い光が駆け巡っている。
視界の端で、赤い何かが揺れる。
俺の背中から伸びたそれは、緩やかに捻れながら水溜まりの中に沈んでいた。布のような柔らかさに反し、見た目はガラスのように透き通っていて硬質だ。先端部分には実体が無いのか、水の底へ溶けたかのように赤い揺らぎを生み出していた。
(これ、って……)
息が詰まり、鼓動が早まるのを感じた。
八年前に出会ったあの人の顔が、頭の中で鮮明に蘇る。
目元を覆うバイザーはオレンジ色ではなく、丁寧に磨き上げられたルビーのような赤色だ。ヘルメットの形状も、似てはいるけどかなり異なっている。
だけど全身を包む黒い衣服も、滑らかな曲線を描く銀色の鎧も、あの人とほとんど同じだ。
そして、自分がしたことの異常さに、今更ながら気づく。光井君を助けたい一心だったとはいえ、ほとんど疑問に思っていなかったことが信じられない。
――あの時の俺は、間違いなく空を飛んでいた。
どうやって飛んだのか、どうして飛べると思っていたのか全く思い出せない。でも、俺の両腕に抱えられた光井君の存在が、あれは夢ではなかったと告げている。
驚きや興奮、畏れといった感情が複雑に入り混じり、血流に乗って全身を駆け巡っていく。
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