覚醒(1)

 (俺は……俺はまた……っ!)

 

 恐怖よりも、悔しさが勝る。


 いつだってそうだ。八年前も、母さんが死んだときも、俺はあまりにも無力だった。誰かが助けてくれるのを、ただ泣いて待つことしかできなかった。


 あんな思いは、もうしたくない。自分だけじゃなくて、誰かが傷つくところもこれ以上見たくない。


 そう思っていたのに……結局俺は、何も変わっていなかった。二度と見たくなかった光景を、また、目の前で――


 「……っ!?」


 突然、何かが俺の視界で瞬いた。


 目の奥に鈍い痛みを感じて、俺は咄嗟に手で覆う。


 閉じた目の中で、一筋の銀色の光が過ぎる。

 視界があっという間に白く染まり、周囲の音が遠のいていく。荒れ狂う水の音も、みんなの声も、音のない世界に呑み込まれて消えていく。まるで、波が引いていくように――


 いや、違う。


 遥か遠く、真っ白な世界の奥から、微かな音が聞こえてくる。

 

 これは……人の声、なのだろうか?


 何と言っているのかは分からない。ぶつぶつと、抑揚のない音が僅かに俺の耳へ届くくらいだ。声の主が、男なのか女なのかも分からない。


 でも、何故だろう。

 

 なんとか聞き取ろうとすればするほど、どこか懐かしい気持ちがこみ上げてくる。

 それに、これは……胸の奥から滲む、痛みに似た感情は……?


 (……!)


 不意に、世界に音と色が戻る。


 周囲を取り巻く状況は、何も変わっていない。美代と光井君がいる岩も、ほんの少し前と変わらない角度に傾いている。まるで少しの間、時が止まっていたかのようだ。


 ……いや。一つだけ、変わっていたことがある。


 いつの間にか、俺の右手はズボンのポケットへと収まっていた。指を動かすと、じんわりと温かい。どうやら、中にあるものが熱を放っているようだ。俺は恐る恐る、中身をつまんで引き出してみる。


 「あ……」


 熱を放っているのは、昼休みに美代が落とした奇妙な板だった。あの時は小さかった中心の赤い光が、今は眩しいくらいに強く瞬いている。


 「っ!」


 銀色の閃光が、再び目の前を過ぎった。鼓動のように一定のリズムを刻みながら、何度も何度も俺の視界を白く染める。


 足がひとりでに、一歩前へと踏み出される。


 俺の意思とは関係ない。何かに導かれるように、また一歩前へと進んでいく。 


 穴の淵が、少しずつ近づいてくる。


 背後から、雛香ちゃんが泣きそうな声で俺を呼んでいる。


 当然の反応だ。あと一歩踏み出せば、あるいはまた近くで爆発でも起これば、俺は間違いなく穴の中へ落下してしまう。


 でも、怖くはなかった。


 どこからか湧いてくる、行かなければという使命感が俺を強く突き動かしている。


 俺は体を前に傾けて、勢いよく地面を蹴った。空中に躍り出た体が、ゆっくりと前へ傾いていく。迫り来る風圧が、髪を後ろへと流していく。


 迫り来る岩を真っ直ぐに見つめながら、俺は手にした板を顔の前にかざした。側面に親指を押し付けると、モーターと鈴の音を掛け合わせたような不思議な音と共に、中心の金属が花のように展開する。


 中から赤い発光体が完全に露出し、ひときわ強い輝きを放つ。

 

 俺は目を閉じて、息を深く吸い込んだ。湿った土の臭いが鼻の奥を突き抜けて、頭の中に満ちるもやを瞬く間に晴らしていく。


 その先に、一つの“名”が浮かび上がった。


 板を持つ手に、力を込める。目を大きく見開いて、眼前に迫る岩をまっすぐに捉え――


 (――応えろ! “エクセルセイバー”ッ!!)


 浮かび上がった“名”を心の中で叫びながら、俺は手にした板で前方を大きく薙ぎ払った。


 手の中から、板の感触が消失する。目の前が眩い光に覆われて、鼻の奥にまとわりついていた嫌な臭いが薄れていく。


 光は一瞬で、視界の外へと流れ去った。


 見えない壁に阻まれたかのように、水飛沫が目の前で弾け、一本の筋を描きながら視界の端へと流れ去っていく。

 肌に触れていた風も、いつの間にか感じない。自分の身に何かが起こっているのは明らかだけど、確かめている暇はない。


 少し身をひねると、落下の軌道が大きく横に逸れた。見えない斜面を滑り下りるように、俺は岩の隙間から覗く光井君のもとへと向かっていく。

 

 美代がこちらを見上げ、大きく後ろへと飛び退いた。その脇を掠めるように、俺は岩の隙間へと真っ直ぐに滑り込む。


 俺は体を大きく後ろに反らし、濡れた岩に膝をついた。横たわる光井君の下に両手を入れ、慎重に持ち上げて抱き寄せる。


 この時初めて、俺は自分が黒い手袋をしていることに気づいた。

 布越しに伝わる微かな温もりに、思わず大きく息を吐く。


 「うっ……!」


 足元が、大きく縦に揺れた。足場が大きく傾き、慌てて両足を広げて踏みとどまる。


 頭上を見上げると、地響きと共に曇り空が遠ざかっていくのが見えた。先ほどよりも速さを増して、岩場が沈み始めているようだ。


 俺は地面を強く蹴って跳躍した。足が地面を離れ、風を切りながら上昇していく。身の丈を追い越し、岩の高さを越えても上昇は止まらない。


 足元で、爆発音に等しい轟音が鳴り響く。凄まじい風圧が下から吹き上がり、体が僅かながら揺さぶられる。

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