絶対絶命、そして……(2)
猛禽類の鳴き声を思わせる、甲高い音が俺の思考を遮った。
数秒と経たないうちに、俺と命の恩人を乗せた乗り物が激流の上を走り出す。
今までに乗ったどんな乗り物よりも、ずっと速い。氷の上を滑るように、流れに逆らって進んでいく。
景色がぶれて、形を崩していく。
立ちはだかる水の壁を切り裂き、時折大きく飛び上がっては、大量の水しぶきを巻き上げつつ着水する。その度に俺は目を閉じ、頭を伏せて衝撃に耐えた。
高音が鼓膜に突き刺さる。船にはそれほど詳しくないけど、こんな音を鳴らして動く船なんて聞いたことがない。
それに、これだけ速く進んでいるにも関わらず、風圧を全く感じない。水を含んだ俺の髪は、ぽたぽたと水滴を真下に落としている。体は風に熱を奪われることなく、むしろ適度な温かさを取り戻しつつあった。考えてみれば、この乗り物に乗せられてから、全く水を被っていない。
ボートが大きく右に傾いた。水上を走る音が、岩を削る無骨な音に変わる。ボートは急ブレーキをかけたのか一気に速度を落とし、やがて駆動音を収束させながらぴたりと制止した。
銀色の人物が軽やかに身を翻し、ボートから降りる。辺りを見回した後にこちらを振り返ると、細くしなやかな腕を目の前に差し出してきた。
降りろ、ということらしい。俺は差し出された手を握り、優しく腕を引かれ導かれるまま、岩の上に降り立つ。手を離された途端に疲れが体にのし掛かり、へなへなと座り込んでしまった。生温い雫が、こめかみを伝い落ちる。
俺は地面に手をつき、銀色の人影を見上げた。さっきよりも落ち着いた状態で見た姿は、やはり八年前の人物とは大きく異なっていた。
頭をすっぽりと覆うヘルメットは曲線的で、鮮やかなピンク色のバイザーが目元と思われる場所を覆っている。後頭部は開きかけた花の蕾のように幾つかのパーツに分かれて広がり、精巧な銀細工のように繊細な輝きを放っている。
両耳の下あたりから伸びるピンク色の帯は膝まで届くほど長く、先端は魚のヒレを思わせる扇状に広がっていた。
そのシルエットは、どう見ても女性のものとしか見えなかった。
俺とは比較にならないほど水浸しになった体が、僅かな光を拾いあげて跳ね返す。白とピンクの輝きを散りばめた姿は、今までに見た何よりも美しく、輝いて見えた。
「……その、ありがとう。おかげで助かったよ」
よろめきながらも立ち上がった俺は、恩人の顔に真っ直ぐ向き合った。目線の少し下にあるピンク色のバイザーが、鏡のように俺の顔を映し出す。濡れた前髪が草の根のように広がって、ぴったりと額に張り付いていた。
恩人は動かなかった。どこかの城に置かれていそうな甲冑のように、背筋をぴんと伸ばして立っている。
……と思いきや、恩人はくるりと踵を返して、いきなりすたすたと歩きだした。
「おい、待てよ……」
妙に早足だ。岩場に足をとられて思うように進めない俺を、ぐんぐんと引き離していく。
あいつは今、何を考えているのだろう。いずれにせよ、こんなところに置き去りなんて絶対に御免だ。
「待てって……美代!」
前を行く背中が、びくりと肩を跳ね上がらせ足を止める。
「……美代、だよな?」
ずっと思っていたことを、尋ねてみる。
初めて姿を見たときから、あいつの面影を感じずにはいられなかった。僅かに聞こえた声も、昼間に聞いたものと同じとしか思えなかった。
――果たして、命の恩人……もとい美代の反応は、これ以上ないくらいに分かりやすかった。
こちらを向いて、二、三歩後ずさり。その際近くに転がっていた石に足を滑らせ、手足をばたつかせながらひっくり返った。派手に尻餅をつき、甲高い悲鳴を上げる。
……ほんの少し前の、華麗な動きは何だったのか。
何とか堪えようとしていたものの、俺はとうとう我慢できなくなって噴き出してしまった。
よっぽど恥ずかしかったのか、美代は尻餅をついた時の体勢で、下を向いたまま固まっていた。
正直、気持ちは理解できる。逆の立場だったら、俺だってこうなっていたはずだ。
「……何で?」
もたつきながらも近づいた俺を、美代は座り込んだまま見上げてくる。少しこもった、微かに震えるその声は、間違いなくあいつのものだ。中に隠された顔は、きっと熟れたリンゴの如く赤くなっているに違いない。
「声、かな。昼に話したばっかりだったし。あとは……なんとなく」
最後は半分冗談混じりに言うと、美代は大きな溜め息を吐き出した。若干ふらつきながらも立ち上がると、右手をこめかみの辺りに添えて、撫でるようにさっと真後ろに払う。
すると、撫でられた箇所から色が抜け落ちた。金属からガラスのような質感へと変質したヘルメットが、一瞬で跡形もなく消滅する。
同時に、見知った顔が露になった。
伏せていた目がゆっくりと開かれ、サイドで結んだ髪がはらりと揺れる。
予想通りというべきか、小ぶりな顔がほんのりと赤みを帯びていた。
「何それ……」
溜息混じりに呟きながら、美代は頬を膨らませつつ目線を逸らす。緊張感に満ちた場に合わない、幼い子どものような仕草に思わず笑みがこぼれ出る。
「だって、お前の反応って分かりやすいし」
「う……」
図星を突かれたらしい美代が顔を伏せる。その仕草が、なんだかとても懐かしく感じられる。嘘が下手で、すぐに顔や態度に出る所は、昔からほとんど変わっていない。
「それより……」
俺は美代の姿を、頭からつま先までじっと観察する。訝しげな表情で一歩後ずさる美代に気付き、慌てて首を左右に振る。
「その格好、何なんだ? まるで――」
“あの人”みたいじゃないか、と言いかけた、その時。
凄まじい爆発音が、激しく空間を揺さぶった。
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