絶対絶命、そして……(1)

 「走れ!!」


 張り上げた声が、轟音に呑まれてかき消える。鈍い振動が空気を震わせ、びりびりと不快な音が辺りに満ちる。


 遥か上流で岩の間をすり抜け、巨大な塊が迫ってくる。飛沫をあげながら押し寄せてくるのは……茶色く濁った、大量の水だ。


 「こっちだ! 早くっ!!」


 俺は雛香ちゃんの腕を掴み、川に背を向けて走り出す。ごつごつとした、大きな石があちこちに転がっているせいで、足をとられてなかなか思うように進めない。


 そうしている間にも、濁流はどんどん迫ってくる。崖を削り、突き出た岩を砕きながら、俺たちのほうへと向かってくる。


 地響きにも等しい音が、あらゆる音を呑み込んでいく。空気がびりびりと震え、肌に触れる空気がみるみるうちに冷えていく。


 このままじゃ、二人とも間に合わない。

 そう悟った瞬間、考えるよりも先に体が動く。


 俺は渾身の力で雛香ちゃんの腕を引っ張った。

 引き寄せた小さな体を、半ば放り投げるようにして前方へと解き放つ。


 大きくよろめいた雛香ちゃんが、岩場に両手をついて倒れこむのが見えた。

 ゆっくりとこちらを振り返った表情が、困惑から恐怖へと変わっていき――


 直後、巨大な砂袋で殴られたような衝撃が、俺を襲った。


 天地がひっくり返り、冷たい液体の中へと放り込まれる。口の中に生臭さと不快な味が満ち、鼻の奥が滲みるように痛む。


 腹から絞り出した吐息が、大きな水泡になって消えていく。


 手を伸ばし、足をばたつかせても、まとわりつく圧をはね除けることは叶わない。時折、堅い物体が体のあちこちを高速で掠めていく。鋭い痛みに歯を食いしばり、耐えているだけでも、全身から貴重な酸素が容赦なく奪われていく。


 苦しい。怖い。

 

 耐えがたい苦痛に苛まれ、次第に意識が遠のいていく。


 もう駄目だ。


 嫌だ、死にたくない。


 二つの感情がせめぎ合う中、かつて自分を助けてくれた人物の姿を思い描く。


 あの人に、会いたい。


 もう一度、俺を助けて欲しい、と……。


 


 濁った水の奥で、何かがきらりと光った。死を前にした人は幻を見ると、どこかで聞いたことを思い出す。


 何かが、猛スピードで近づいて来る。激流をものともせず、水中を華麗に踊るように。


 濁った水の中で、ピンク色の閃光が軽やかに帯を描いた。それは風に踊る花びらのように、視界の外へと消えていき――


 直後、誰かが俺の右手首を掴んで、強く引っ張り上げた。

 

 大量の水しぶきと共に、俺は水中からはじき出される。


 腕を空中で解き放たれ、再び掴み直される。ふわりと横方向に回転した俺の視界に、細くなびくピンク色の光と、銀色の人影が映った。


 ――ほんの一瞬、時が止まったような気がした。


 閉ざされた空から漏れる僅かな光を、滑らかな金属が反射する。その光を受けた水しぶきが銀色の粒子となって舞い上がり、星を振り撒いたようにきらりと輝いて、散った。

 

 細い腕に引き寄せられた俺の体が、人影の背中に降りる。記憶に残るものよりずっと小さな肩に、俺は震える手ですがりつく。


 銀の鎧は予想に反して、人肌のようにじんわりと温かかった。後頭部からはピンクの光が二本、紐のように伸びて大きく揺れている。帯は実体が無いのか、何度も俺の体をすり抜けていた。

 

 ――違う。似てるけど、あの人じゃない。


 力強く、頼もしさに溢れていた、八年前の恩人とは違う華奢な体。暗闇の中で鮮やかに浮かんでいた、オレンジ色の光も見当たらない。


 それでも、近いものを感じずにはいられなかった。艶のある革によく似た服と、不思議な質感を持つ銀色の鎧は、八年前に見たものとほとんど同じだ。


 (でも、来てくれたんだ……)


 未だはっきりとしない意識の中で、俺は確かな喜びを感じていた。あの人ではなくても、助けに来てくれたことに変わりはない。こんな状況だというのに、俺は今、感動すら覚えている。


 俺を背負った人が、何かの上に着地した。まだ水上にいるのか、足場がふわふわと上下に揺れる。


 少し指を動かすと、陶器のような滑らかで硬い感触があった。どうやら、ボートのような物に乗せられたようだ。


 命の恩人の背中を滑り落ち、俺は座席のような場所に腰を下ろされる。


 体にあまり力が入らない。短時間とはいえ、生死の境をさまよったからか、思った以上に体力を消耗していたようだ。


 恩人の肩を掴んだはずの手が、空を切って背中を滑り落ちる。支えを失った俺はバランスを崩し、どかっと前へ倒れ込んでしまった。


 「ひゃうっ!?」


 前のめりになった恩人が、高い声を発しながらバネのように身を起こす。その勢いに容易く押し負けた俺は、抗う気力もなく後ろへと倒れていく。


 「あっ……」


 咄嗟に伸ばされた腕に肩を掴まれ、ぐいと引き寄せられる。おかげでなんとか頭を打たずに済んだ俺は、相手の顔を見上げながらふっと表情を緩める。


 「ごめん、大丈夫」


 ぎこちなくも笑って見せると、ヘルメットの中から小さく息を吐く音が聞こえた。


 恩人は立ち上がれない俺の腕を引いて持ち上げると、再びシートの上に座らせた。何事もなかったかのように正面を向き直り、右手を忙しなく動かし始める。


 その間、俺は目の前の人物が発した声を頭の中で何度も再生していた。


 シャープな外見とは裏腹に、少々子どもっぽくて、可愛らしい声。短いながら確かに聞いたそれを……俺は、昔から知っている。

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