歪んだ世界(3)
肩が外れそうなほど、腕が痛む。
それでも少しずつ、しかし確実に、女の子との距離は縮まっていく。痛みに耐え、女の子が手を離さないことを祈りながら、俺は懸命にジャージを手繰り寄せていく。
(よし……!)
腕が届きそうな場所まで近づいた所で、俺は岩から左手を離した。両手でジャージを掴み、ありったけの力を込めて強く引っ張る。なんとか足がつく深さまでたどり着いたらしい女の子が、ゆっくりと岸に向かって歩いてくるのが見えた。
「あとちょっとだ、頑張れ……!」
女の子が小さく頷く。岸へ上がりきるまで油断はできない。肘を曲げ、水中から女の子の足が引き上げられるのを見届けてから、俺はゆっくりと身を起こす。
「あ……!?」
女の子と目が合った瞬間、俺たちは驚きのあまり大きく目を見開いたまま固まった。
肩で息をしながら制服の袖を握り締め、ふらふらと岸に上がろうとしているのは、小学生くらいの女の子だ。ポンポンのついたヘアゴムで左右に束ねた髪が、ぐっしょりと濡れて白い首筋に張りついている。
助けることに夢中で全く気づかなかったけど、どう見ても今朝の……手提げ袋を取ってあげた、あの女の子で間違いない。
「大丈夫か!?」
俺はジャージを投げ捨てて女の子に駆け寄った。小刻みに震える小さな体がくらりと傾き、俺の体に倒れ込む。
「よかった……本当に」
女の子を抱える手に力がこもる。まだ安心できる状況ではないというのに、足に力が入らない。倒れ込む女の子を支え切れず、二人揃って地面にへたり込んでしまった。
「えっと……また、会ったな」
「うん」と、か細い声で女の子が頷き、俺の服を掴んで握りしめた。
俺たちは水辺から離れ、近くにあった大きめの岩陰に座り込んだ。時折吹いてくる、生ぬるい風を避けるためだ。
濡れた服のまま風に当たれば、急激に体温を奪われてしまう。加えてかなり体力を消耗しているのだから、あの場所に留まるのは危険だと判断したのだ。
「これ……」
俺は体操服を脱いで、体を丸めて座り込む女の子に差し出した。濡れた服を着続けていれば、いくら風を避けたところで意味はない。ぶかぶかだし、あまりいい気分ではないかもしれないけど、この状況下では背に腹は代えられない。
「お兄ちゃんは、寒くないの……?」
「俺は大丈夫。ほら、大して濡れてないだろ?」
両腕を広げ、体操服の下に着ていたシャツを見せながら笑ってみせる。本当は少し肌寒いのだけど、この女の子に比べれば大したことではない。
女の子はしばらく体操服を手に悩んでいたけど、やがて意を決したように服へと手をかけた。その様子に少し安堵しつつ、俺は女の子に背を向ける。
「いいよ」
着替えが終わったらしい女の子に言われ、俺は振り向く。案の定、俺にとってちょうどいいサイズの体操服が、ワンピースのようにすっぽりと女の子の体を包み込んでいた。
「ごめん。嫌かもしれないけど、ちょっとだけ我慢してくれるかな」
女の子は俯いて、胸元の布地を両手で握った。座ったままじりじりと俺に近付き、もたれかかるように身を寄せてくる。
「ここ……どこ?」
「……分からない」
か細い声で問われ、俺は首を左右に振る。女の子は微かに泣き声のような声を漏らしながら、より強く体を押しつけてきた。
(……これからどうしよう)
女の子の背中を優しく叩きながら、俺は空を見上げて溜息をつく。
何とか眼前の危機を脱することはできたけど、今いるこの場所だって、決して安全とは言い切れない。
できるだけ、危険の少ない場所で救助を待つのが最善だと分かってはいる。
でも、水を避けて崖の上へ逃れたとしても、また爆発に巻き込まれてしまうかもしれない。だからといって、川岸に留まるなんてもっての外だ。なら、一体どこに行けば――
「お兄ちゃん……?」
か細い声に振り返ると、不安げにこちらを見上げる女の子と目が合った。
「あ……ごめん」
考え事に集中し過ぎて、険しい顔になってしまっていたようだ。幼い相手を不安にさせてしまったことを反省しつつ、俺は深呼吸をして気持ちを切り替える。
「そういえば、まだ名前を聞いてなかったな。俺は丈瑠。一条丈瑠っていうんだ。君は?」
「……
小さく丸めた体の内側で、くぐもった呟きが確かに聞こえた。
「雛香ちゃん、か。いい名前だな」
「そ、そうかな」
少し顔を上げて、雛香ちゃんはぱちぱちと瞬きを繰り返した。髪の陰から覗く耳が、ほんのりと赤みを帯びている。
「お兄ちゃんの名前も……かっこいい、と思う」
「あ、ありがとう」
少し気恥ずかしくなって、俺は思わず雛香ちゃんから目を逸らした。知り合ったばかりの女の子に振る話題としては、もっとふさわしいものがあったかもしれないと、心の中で少し反省する。
「……大丈夫、だよね。助けてくれた人がいたって、お兄ちゃん言ってたもん」
「……あ」
微笑む雛香ちゃんの言葉に、俺ははっと息を呑む。
今朝、泣いているこの子を励まそうとして、少しだけ打ち明けた八年前のこと。
あの時は、こんなことになるとは微塵も思っていなくて、すぐに忘れてしまうだろうと思っていたのだけど……。
「……そう、だよな」
雛香ちゃんの肩に手を添えながら、俺は周囲をぐるりと見渡す。
湿っぽい空気が孕む、不快な臭い。見ているだけで心をざわつかせる、異様な景色。
地形こそ違うけど、気を抜けばあっさりと命を奪われてしまいそうな雰囲気はあの時と全く変わらない。
助けなんて来ないと、心のどこかで決めつけてしまっていた。
でも、あの人なら。八年前、俺を助けてくれた人なら、この状況下でも俺たちを見つけて、助け出してくれるかもしれない。
不安と恐怖しかなかった心に、少しだけ明るい光が差し込むのを感じた。助けが来る可能性がゼロじゃないというだけで、僅かでも生きる気力が湧いてくる。
「とりあえず、ここを離れよう。立てるか?」
雛香ちゃんはこくんと頷き、立ち上がる。俺のあとを追って歩く様は、さっきまで溺れかけていたとは思えないほど軽やかだ。
(とにかく、安全な場所を見つけないと)
気のせいか、川の音がさっきよりも大きくなっている気がする。高台へ逃げるべきだとは思うけれど、崖の上はいつ崩れてもおかしくないだろう。
あそこへ戻るのは危険だ。まずは少しでも、比較的安全な場所を見つけるしかない。さっきまであんなにも不安だったのに、今は不思議と落ち着いた気持ちだ。
(……ん?)
一歩踏み出した俺は、ふと違和感を覚えて立ち止まった。
「お兄ちゃん?」
不安そうに見上げる雛香ちゃんをよそに、俺はじっと耳を澄ませて周囲を見回す。
どこからか、音が聞こえてくる。
低くて重い、不気味な響き。振動が足の裏から伝わって、じりじりとこちらに迫ってくる。
地震? いや、違う。これは、どう考えても――
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