歪んだ世界(2)

 「……え」


 目の当たりにした現実を、すぐには受け入れることができなかった。


 俺のすぐ後ろ、ほんの数歩先にあったはずの地面が……跡形もなく消滅していたのだ。


 重量のある物体が水面に叩きつけられ、大量のしぶきを上げる音が霧の向こうから聞こえてくる。何らかの原因で崩れ落ちた岩が、おそらく下にある水辺へと叩きつけられたのだろうと理解する。


 ――あの場所に留まっていたら、死んでいた。


 そんな考えが頭を過ぎり、ぞわりと全身が総毛立った。

 今いるこの場所だって、いつ崩れ落ちてもおかしくない。


 (行くしかない……行かなきゃ、ダメなんだ……!)


 俺は心を奮い立たせ、道へと続く岩の段へゆっくりと足をかけた。はしごを降りるように階段と向き合いながら、一歩ずつ慎重に降りていく。


 そうして、おおよそ道とも呼べないような、しかし周辺よりは平坦な場所へと両足を降ろす。


 (……っ!)


 踵に触れた小石が転がり、そのままの勢いで崖下へと落ちていった。つい目で追おうとして、慌てて固く目を瞑る。


 下を向くな、振り返るな。


 何度も頭の中で唱えながら、岩肌をしっかりと掴んで慎重に降りていく。ただ足元にだけ意識を集中し、一歩一歩確実に。目先の岩を掴み、右足を伸ばして体をスライドさせる。


 この動作を何度も何度も繰り返して、少しずつ確実に降りていった。永遠に終わらないのではないかと、何度も思ってしまうくらいに。


 やがて最後の一歩を踏み出し、崖と広い岩場が同化したことに気付いた俺は、詰めていた息を大きく吐き出しながらその場にへたりこんだ。


 「はぁ、はぁ……」


 俺は全身の力を抜いて岩壁にもたれかかり、ただ茫然と空を見上げた。隙間なく敷き詰められた灰色が、俺の心に暗い影を落とす。


 霧がかかっていてよく見えないけれど、水の音が近い。地鳴りにも等しい音量で、疲れきった体に追い討ちをかけてくる。


 八年前のあの時と似た状況だけど、どうすればいいのかなんて分からない。そもそも俺は、どうやってあそこから戻ってきたのかさえ知らないのだから。


 また、あんな思いをしないといけないのか。死の恐怖に怯えながら、長い時を過ごしたあの時のように……。


 臭気を帯びた風が、俺の思考を遮った。臭いに顔をしかめながら顔を上げて、僅かに霧が晴れた正面に目を凝らす。


 「え……」


 目の当たりにした光景に、再び全身が強張っていく。


 薄霧の向こうで、黒っぽく濁った大量の水が大きくうねりながら流れていた。時折水面から顔を覗かせる尖った岩は、おそらく俺の背丈をゆうに越えているだろう。


 その岩の根元に、小さな影が見える。上下に激しく揺さぶられ、何度も流れにさらわれそうになりながら、僅かな突起に懸命にしがみついている。まさか、あれは――


 (人……!?)


 それも、子どもだ。まだ小さな子どもが、川に流されかけているのだ。


 俺は疲労しきった体を無理やり立ち上がらせ、川辺へと駆け寄った。奔流に飲まれない、近づけるギリギリの位置で身を屈める。薄っすらと生ごみに似た臭いを孕んだ水しぶきが、体中に容赦なく降りかかる。


 「くっ……!」


 荒れ狂う流れの切れ間で、岩にしがみつく小さな影に目を凝らす。どうやら流されかけているのは、幼い女の子のようだ。ここからそれほど離れてはいないとはいえ、手を伸ばしてもギリギリ届きそうにない。


 「大丈夫か!?」


 水の音に阻まれながらも、俺は大きな声で呼びかける。


 「今助けるから! もうちょっとだけ頑張るんだ!」


 深呼吸をして心を落ち着かせると、俺は上のジャージを脱ぎにかかる。


 泳いで助けに行くのは、あくまで最後の手段だ。溺れている人はパニックに陥っているから、近づこうものなら必死にしがみついてくる。そのせいでまともに泳げなくなって、俺まで溺れてしまったら洒落にならない。


 だから、陸から浮き輪やロープなどを投げて救助するか、人を集めて手を繋ぎ、鎖状に連なって手を伸ばすのが望ましいのだ。昔、興味本位で親父の部屋にある本を読んだことがあったのだけど、こんなところで役に立つとは夢にも思わなかった。

 

 とはいえ、今の俺は浮き輪もロープも持っていない。ざっと周りを見渡してみても、あるのは無骨な岩ばかりで、使えそうなものは何一つ見当たらない。


 となれば、もう頼れるのはこれ――今の俺が着ている、学校指定のジャージしかない。


 「これに掴まれ!」


 俺はジャージの袖をしっかりと握って腹這いになり、もう片方の袖を女の子がいる場所めがけて投げた。中に着ていたのが半袖の体操着だったせいで、岩場の冷たさがきりきりと肌を刺す。


 袖は女の子より少し下流側の水面に落ちた。

俺はすぐにジャージを引き揚げ、投網の要領でもう一度投げる。


 風が吹いているせいか、なかなか狙った場所に落ちてくれないけど、長さはなんとか足りている。ギリギリではあるけど、女の子が腕を伸ばすことさえできれば、きっと届くはずだ。


 焦るな。落ち着いて、上手くいくまで何度でも……。


 (よし!)


 五回目の挑戦でようやく狙い通りの位置に着水した時、俺の鼓動は僅かに早まった。


 「掴め!」


 俺が叫ぶと同時に、女の子が袖を掴んだ。小さな体が翻り、激しく水を被る。


 「絶対離すなよ! もう少しだ!」


 しっかり踏ん張らないと、俺まで水中に引きずり込まれそうだ。

 近くにあった大きな岩を左手で掴み、足を岩の隙間に引っ掛けて体を支える。何度も川へ引っ張られそうになりながらも、歯を食い縛りながら踏みとどまる。

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