歪んだ世界(1)
分厚い、灰色の雲が空を閉ざしている。
雲の隙間で時折光が明滅し、雷鳴のような音を響かせている。
その下では巨大な茶色い岩の塊が無数に突き出し、鋭い切っ先を空に向けていた。無数にある岩はそれぞれ大きさこそ違うけど、全てが型で抜いたように同じ形をしていた。
周囲を探れば探るほど、違和感は際限なく膨らんでいく。そもそも穴の底にいるはずなのに、どうして空が広がっているのだろう――
まさか。いや、そんなはずはない。
頭の中に浮かんだ一つの可能性を、俺は頭を振って強引に追い出した。そうとしか考えられない。考えられないけど、断じて受け入れたくはない。
「うわっ……」
動揺したせいか足を滑らせてしまい、俺はよろめきながらもなんとか踏みとどまった。否が応でも、足元の岩肌が視界に映る。
粘液でも纏ったかのような、生々しい光沢。さっきから鼻につく臭いは、ここから放たれているのだろうか。細かく刻まれた青白い筋が、ぼんやりと光を放って――
「……ぁ……」
青白い、光。
眠っていた記憶が、鮮明に呼び起こされる。
心を落ち着けようと深く息を吸いこめば、ねっとりとした臭いが鼻腔の中に充満する。俺は喉に満ちる不快感から咳き込み、その場にうずくまった。
あの時と……八年前と同じだ。
そう思った瞬間、全身を冷たい感覚が駆け巡るのを感じた。
あの場所も、壁や床が光源もないのに淡く不気味に光っていた。
それはつまり、ここもあの時と同じということ。
崩れる天井、どこまでも続く狭い道、瓦礫の中の狭い空間。長い、長い時間をあの場所でーー
「あ……あぁ……!」
嫌だ、今すぐこの場から離れたい。
立ち上がろうとした足がもつれ、俺はバランスを崩し前のめりに倒れてしまった。
咄嗟についた手が、水溜まりに沈む。水は少しぬめりがあって、何らかの生物の体液のようだ……などと考えてしまい、俺は小さく悲鳴を上げて、手を何度も岩肌に擦り付けた。
何で、何でまた。もう二度と、こんな目には遭わないと信じてたのに。
「誰か……」
俺は顔を持ち上げ、ぐるりと周りを見渡した。人影はない。何処からか聞こえる水の音が、ひどく耳障りだ。
「ーーて……」
水の音に混じって、微かに女の子の声が聞こえた気がした。よく耳を澄ませないと聞こえないほど、弱々しい声だ。
誰かがいる。俺は立ち上がると、すがるような思いで声の出所を探った。
水の音は遥か下、霧に覆われた崖下から聞こえてくる。
ならば、声の主もそこにいるはず。俺は意を決して、崖の淵へと足を動かした。
灰色がかった濃い霧が、空中を這うようにゆったりと流れていく。その様子は遥か下から聞こえる水の音のせいだろうか、低く不気味な唸り声をあげながら進む、巨大な獣のようにも見えた。
あの下に、きっと誰かがいる。
俺は四つん這いになり、崖の下を覗き込んだ。
うっすらと霧を被った道が、俺のすぐ真下にあった。崖の側面に沿って、霧の中へ深々と突き刺さるように伸びている。道の脇に一ヶ所だけ、岩が階段のように積み重なっているから、降りることは十分可能なはずだ。
だけど俺は、あまりの恐ろしさに全身を強張らせたまま、その場に固まってしまっていた。
道幅は広い箇所でも、一人がぎりぎり通れるくらいしかない。おまけに無骨な岩がいくつも転がっていて、足場もひどく不安定だ。当然ながら岩壁の反対側は断崖絶壁で、落ちたらひとたまりもないことくらいは容易に想像できる。少しでも躓いたら、あの濃霧の中へ真っ逆さまだ。
「他に、道は……」
仮に命綱があったとしても、通りたいと思える道ではない。
もっと安全に降りられる道が、探せばきっとどこかにあるはずだ。俺は崖の淵から少しだけ離れると、立ち上がろうと両足に力を込めた……直後。
地面が、大きく縦に揺れた。何事か確かめる間もなく、再び地の底から突き上げるような衝撃が俺を襲い――
「うわっ!?」
突然の、爆発音。地響きが周囲の音をかき消し、空間を大きく震わせる。
すさまじい風圧が俺を襲い、岩の塊が空高くに噴き上がった。
俺は再び身を屈める。土埃が視界を奪い、小さな石が背中や頭にいくつも直撃する。
爆心地に放り込まれたかのような衝撃が、容赦なく周囲をかき回す。
俺は両手で頭をかばい、近くにあった大きな岩の陰に身を滑り込ませた。限界まで身を小さくして、目を固く閉じうずくまる。
早く収まってくれと、何度も心の中で懇願しながら、ひたすら耐え続けて。
……程なくして、音はぴたりと止んだ。
俺は少しだけ身を起こして、状況を確かめるべく背後を振り返る。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます