異変(2)
そして、今朝も訪れた丘が見えてきた瞬間――
「なっ……!?」
視界に飛び込んできた光景に、俺は思わず足を止めた。
地面に、巨大な穴が空いている。
青々とした芝生がぐにゃりと傾き、大きく窪んだ地面の中に深々と沈み込んでいる。乱れた息を整えようとするたびに、湿った土の臭いが鼻の中へと流れ込む。
(まさか……)
昼間の理科準備室で見かけた、新聞記事を思い出す。
市内で頻発しているという地盤沈下が、ここでも起きたというのだろうか。
だけど、何かがおかしい。
理由は分からないけど、地面から足の裏を通して何かが這い上がってくるような、ひどく気味の悪い感覚がする。
それに、空が広いというか、妙に風通しが良すぎるような――
「……ぅぅっ……!」
穴の中から、か細い女の子の声。俺は咄嗟に穴の淵へと駆け寄り、四つん這いになって中を覗き込む。
直後、俺は息を呑んだ。
小学生くらいの女の子が、泣きながら穴の側面にしがみついていた。
壁から僅かに突き出た岩の上に震えながら立ち、細く頼りなげな指先で懸命にしがみついている。擦りむけた手の甲は黒い土で汚れ、よく見るとうっすらと血が滲んでいた。
穴の底にはどす黒い闇が沈んでいて、どのくらい深いのか見当もつかない。
「あ……!」
女の子と、視線が重なる。潤んだ瞳の奥に、淡く小さな光が宿る。
「大丈夫! 今助けるから! もうちょっとだけ、しっかり掴まってるんだ!」
張り上げた俺の声が穴の中で反響し、こだまのように何度も繰り返された。すぐにでもこの手で助けたい気持ちをぐっと堪え、縁から少し離れて立ち上がる。
――危険な状況に置かれた人を見つけても、決して一人では助けようとしないこと。
昔、ことあるごとに親父から言われていたことを、頭の中で何度も繰り返し自分に言い聞かせる。
あの頃は少し鬱陶しく思っていたけど、おかげで今はある程度冷静でいられている。
今ここで無理に手を伸ばせば、俺まで穴の中へ引きずり込まれてしまいかねない。近くの人を呼び集めて、協力を仰ぐのが最善のはずだ――
(……え?)
助けを呼ぼうと踵を返した瞬間、俺は抱き続けてきた違和感の正体に気付いて空を見上げた。
ここは朝、女の子の手提げ袋を回収した場所のはず。
なのに、俺が登ったはずの木がどこにもない。まるで、始めから存在していなかったかのように。
(穴に落ちたのか? いや、でも……)
俺は再び背後を振り返る。確かに大きな穴ではあるけど、木があったはずの場所からは明らかに外れている。木の根元にあった黒い棒状の標が、周りの地面を大きく残して存在しているのだから間違いない。なら、一体どうして――
「っ!?」
下から聞こえる、大きな音。
俺は咄嗟に足元へと目を落とす。地面に黒い亀裂がはしり、ガラスを踏み砕くような音を響かせながら、あっという間に広範囲へと広がっていく。
思わず引いた足裏に、地面の凹凸を全く感じない。まるで、地面と俺の足元の間にある空間が割れているみたいだ。
(何だよ、これ……!)
首筋を、冷たい感覚が這っていく。とにかくこの場から離れようと、足を大きく引いた瞬間。
何かが、俺の足首を掴んだ。そのまま強く後ろに引っ張られ、俺は地面に強く体を打ちつけ倒れ伏す。
あの女の子か? いや、違う。これは人の手の感触じゃない。まるで、空気の塊に掴まれているような……。
「っ……!」
痛みに呻きながら、俺は両手をばたつかせる。掴んだ草がちぎれ、土を引っ掻いても、引っ張る力は止まらない。
そしてついに……地面の感触が消えた。
夕暮れの空が遠ざかり、慌てて伸ばした手が空しく暗闇を掴む。わずかに見えていた空の光は、数秒と経たないうちに遥か上へと飛び去り、闇に呑まれて消えていく。
(あ……)
穴の中に引きずり込まれたのだと、俺は瞬時に悟った。
恐怖と絶望が、俺の心を一瞬で支配する。全身の臓器が縮み上がるような、嫌な寒気が体中を覆っていった。
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