異変(1)

 「どうした?」


 思わず立ち上がった俺を、淳が不思議そうな目で見上げてくる。奇異な目で見られることもお構いなしに、俺は忙しなく周囲へ視線を巡らせた。


 近くにいるのは、遊具で遊ぶ子どもと、それを見守る大人たちだけ。皆、他愛のない話に花を咲かせていて、異変に気付いていそうな人は誰一人として見当たらない。


 (気のせい、だったのか……?)


 あるいは、他の音――例えば、車の急ブレーキ音とか――を、悲鳴と勘違いしてしまったのか。

 ここから少し離れているとはいえ、花吹公園は大きな道路に隣接しているから、あり得ない話ではないと思うけど……。


 「おーい、大丈夫か?」


 淳が俺の顔を覗き込み、眼の前でひらひらと手を振った。俺はもう一度さっと周囲を見渡してから、淳を見下ろして小さく息を吐く。


 「ごめん、何でもない。ちょっと――」


 疲れてるのかな、と冗談めかして笑いかけた……その瞬間。


 耳をつんざくような金切り声が、辺りに響き渡った。


 今度は、絶対に聞き間違いなんかじゃなかった。


 言葉の体をなしていない、だけど確かな感情が込められた、悲痛な声。ほんの一瞬の叫びに込もっていた恐怖や絶望が、余韻となって俺の心を揺さぶっている。


 (あっちか!?)


 声がしたのは、たぶん公園の南側だ。


 ここから見た限りだと、池の周辺には誰もいない。

 ということは、さらに向こう側……今朝、女の子が手提げ袋を引っ掛けてしまっていた丘の辺りで、何かがあった可能性が高い。


 でも、あの場所には事故の原因になりそうなものなんてなかったはずだ。一体、何が――


 「おい、どうしたんだよ?」


 不安そうな顔をしながら、淳が俺の手首を掴んで引っ張った。その行動の意味が分からず、俺は淳を見下ろしながら二、三度瞬きを繰り返す。


 「どうしたって……今の悲鳴、聞いただろ?」


 「は? 悲鳴?」


 明らかな困惑の表情を浮かべながら、淳は首を傾げた。


 「そんなもん、全然聞こえなかったぞ?」


 嘘だ。そんなはずはない。


 俺は淳の手を振り払い、もう一度素早く周囲を見渡す。


 目の前を駆けていく、小学生にも満たないくらいの子どもたち。

 その向こうで語り合う、保護者らしき数人の大人たち。


 この場にいる誰もが皆……楽しそうに笑っていた。

 叫び声なんて聞こえていない。何の異変も起きていないと言わんばかりに。


 (何で……っ!)


 あり得ない。あんなにも悲痛な叫びが、俺以外には聞こえないなんて、どう考えてもおかしすぎる。

 皆、どうして笑っていられるんだと、理不尽な怒りすら噴き上がってくる。


 少なくとも、俺にははっきりと聞こえた。疑いようもないくらい鮮明に、確かな声が聞こえたんだ。


 ――「助けて」、と。


 「なあ、大丈夫か? とりあえずちょっと座って――」


 淳の手が、服の袖を掴む。俺はそれを乱暴に振り払い、膝に乗せていたリュックを地面に投げ捨て走り出した。


 「お、おい!?」


 背中へ浴びせられる声に耳も貸さず、柵を飛び越え、人の間をすり抜ける。危うくぶつかりそうになっても構うことなく、飛び石を伝って池を渡る。

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