思わぬ対面(2)
いつの間にか、俺は吸い寄せられるように、準備室の中へと足を踏み入れていた。
美代は通話に夢中なのか、俺が居ることに気付いている様子はない。
……声を、かけてみるべきだろうか。
出来ることなら、もう一度あの頃のような関係に戻りたい。
仲違いの原因となった事件から、もう八年も経っている。
もしかしたらもう忘れているかもしれないし、そうでなくても幼い頃の過ちとして流してくれるかもしれない。
けど、覚えていたとしたら。
あのことを、今も怒っていたとしたら。
そう考えると、どうしても話しかける気にはなれなかった。
(真面目な話をしてるみたいだし……邪魔したら悪いよな)
そう自分に言い聞かせて、俺は静かに立ち去ろうと足を引いた。このまま気付かれないように、足音を立てずこっそりと抜け出せばいい。
……という俺の目論見は、うっかり近くの椅子に足を引っ掛けてしまったことで、儚くも崩れ去った。
咄嗟に伸ばした手が空を切り、ガタンと大きな音を立てて椅子が倒れる。
「はひゃあ!?」
美代が甲高い叫び声をあげ、手に持っていた端末を取り落とした。床に叩きつけられた端末が硬質な音を響かせ、床を跳ねて事切れたように横たわる。
「え……た、丈瑠?」
端末を拾おうと身を屈めた美代は、俺を見つけるなり呆けたように固まってしまった。
こんな風に名前を呼ばれたのも、随分と久しぶりだ。
透き通った色白の肌に、日を浴びて煌めく優しげな瞳。服の上に垂れた、細くて柔らかそうな髪。
すらりと長く、細い手足。
長い間、ちゃんと向き合うことを避けてきたけど、こうして向き合ってみると、昔とはだいぶ雰囲気が変わっていて。
ただ話しているだけなのに、柄にもなくドキドキしてしまう。
「あ、いや、その……」
なんだか気まずくなって、俺は慌てて美代から目を逸らした。
「津上先生を探してるんだ。色々あって、宿題出しそびれちゃってさ。ここにいるかもしれないって聞いたんだけど、見てねーか?」
「……知らない」
素っ気なく答えて、美代はぷいと顔を背けてしまった。
……やっぱりあの時のこと、まだ怒ってるのかな。
それとも、じろじろ眺めてたことがバレたとか?
いや、別に変な気持ちで見ていたわけじゃないんだけど、下手に言い訳すると余計に怪しまれるかもしれないし……。
などと考えながら、俺は気まずさから逃れるように視線を泳がせる。
すると、机の上へ無造作に置かれた新聞を見つけ、俺は自然と文字を目で追った。
――「相次ぐ地盤沈下 未だ原因掴めず」。
そういえば最近、深暮市内で地盤沈下が頻発している、という話を聞いたことがある。
どれも大した規模ではないらしいけど、発生している場所が妙だとかで、親父の職場の人たちも戸惑ってるらしい。
地盤沈下といえば、たぶん理科の範囲内だから、先生たちも気になってるんだろうか。
「怪我、したの?」
不意に美代のほうから話しかけられ、俺は我に返る。
「ああ、これか? 今朝、木から落ちちゃってさ。大した怪我じゃないから、大丈夫」
俺は額の絆創膏を指で擦った。あれから時間が経っているせいか、もうほとんど痛みは感じない。
「……そう」
美代は吐息のように微かな声で答えると、再び顔を背けて黙り込んでしまった。
窓から射す暖かい光に反して、妙に重苦しい静寂が辺りを包む。
(えーと……)
色々話したいという気持ちとは裏腹に、何一つ話題が浮かばない。
諦めて帰ってしまおうかと思った矢先、ふと、床に落ちた端末が目に留まった。
俺は端末を拾い上げ、周囲に人がいないことを確かめてから、美代の肩をぽんと叩く。
「え、え?」
美代は胸元に視線を落とし、両手の平を交互に見つめ、俺の手元を見てはっとした表情を浮かべた。
よほど大事な物なのか、一連の動作はひどく忙しなかった。
「これ、先生に見つかったら即没収だろ。黙っといてやるから、さっさとしまって……」
「ち、違うの! これはスマホじゃなくって、ちょっと特別な……」
「特別?」
確かに、俺が知ってるスマホとはちょっと形が違うけど……なんて思っている隙に、美代は俺の手から素早く端末を奪い取った。
「何でもない! 何でもないから!」
美代は両手で包むように端末を抱え、俺の肩にぶつかりながら準備室の外へ飛び出し、そのままどこかへと走り去ってしまった。
ひとり残された俺は、美代が去った方向を呆然と見つめるしかなかった。
「……何だアイツ」
仕方なくこの場を立ち去ろうとしたとき、机の下で何かが光ったような気がした。
俺はその場にしゃがんで、机の下を覗き込む。落ちていた物体を手繰り寄せて拾い上げ、窓の光にかざしながら目線の高さまで持ち上げてみた。
これは……板状の機械、と言っていいのだろうか。
アクリルと思しき透明な板の中に、複雑な構造をした小さな銀色の金属塊が埋め込まれている。
その周囲には細い銀の筋が複雑に絡み合い、不思議な網目状の紋様を形成していた。
よく見ると、金属塊の中心では小さな赤い光が一定のリズムで瞬いている。
……と、一通り観察してみたものの、何に使うものなのかは見当もつかない。
というか、これも美代の持ち物なんだろうか。
こんなもの理科の教科書には載っていなかったし、備品には必ず貼られているはずのシールも見当たらないし。
さっきの端末といい、あいつは一体何をしているんだろう。
もう少し明るいところで見てみようと一歩動いた瞬間、手にしていたプリントが指の間を滑って、はらりと床に落ちた。
俺はプリントを拾い上げ、自分がここへ来た経緯を思い出す。
そうだ、こんなことをしている場合じゃない。昼休みが終わる前に、何としても津上先生を見つけないと。
(これは……次に美代を見かけたときにでも渡せばいいか)
俺は板をズボンのポケットに押し込み、理科準備室を後にした。
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