(39)

『そういうわけで、少々遅くなるが帰りにお前たちの家に寄りたい』


 四郎からのテキストメッセージを受け取った朔良は、ソファで隣に座る千世にそのまま伝える。


『千世は待つって言ってる』

『できるだけ早く行く』


 千世と四郎はお付き合いを始めたわけだが、諸々の事情があり、すぐに同棲とはならなかった。


 それでも四郎は足しげく千世と朔良の住むマンションに通っているから、これはもう半同棲と言ってもいい状態だろう。


 今日も顔を出すだけでなく、泊まって行くだろうと朔良はなんとなく確信していた。


『さっきの事情は、千世に話してもいいものか?』

『別に構わないが、話すかどうかの判断はお前に任せる』

『わかった』


 朔良のメッセージの横に既読の表示が出て、そこでやり取りが途切れる。


 四郎と、ひと通りの意思疎通はできたと感じたので、朔良はスマートフォンから顔を上げた。


「四郎が……その、今日会った従姉さんとの事情は話してもいいって言ってたけれども――」

「聞いておきたい、です」


 千世ならそう言うという予感は、朔良の中にあった。


 しかし四郎と従姉のあいだにある事情は、内容が内容であるから朔良はどう伝えるべきか悩んだ。


 ふたりの関係は、元恋人というようなものだった。


 明確に肉体関係はあったが、かと言ってセックスフレンドだったとか、そういうわけではない。


 迫ってきたのは従姉からで、四郎は誘われたからという消極的な理由で彼女と肉体関係を持った。


 別に従姉のことを淡く恋い慕っていたとか、そのようなセンチメンタルな背景は一切ないらしい。


 四郎らしいと言えばらしいなと朔良は思った。


 その後数えるていどに「いたした」が、恐らく従姉のほうが飽きたか、他に夢中になれる男でも見つけたかで関係は途切れた。


 ……すべて四郎側の主張であるから、どこまで真実なのか朔良は判断できない。


 が、四郎は保身のためのくだらない嘘をつくような人間ではないことは、知っている。


 恐らく四郎から見たありのままの事情が、おおむね先の通りなのだろう。


 あまりにもあけっぴろげに、四郎から語られた事情を、どう伝えるべきか朔良は悩んだ。


 しかし朔良が嘘をついてもいいことはないだろう。


 千世と四郎はもう恋仲なのだし、付き合っていくうちに事実と齟齬が出るのはマズイ気がした。


 朔良は悩んだ末に、本当のことを伝えつつも、表現は四郎が語ったときよりもマイルドにしておいた。


「そうですか……」


 朔良越しに事情を聞かされた千世は、目を伏せる。


 その表情に、わずかな不安がにじみ出ているように見えて、朔良は気を揉んだ。


 朔良が伝えたのは、四郎と従姉の関係だけだった。


 朔良は把握しておいたほうがいいから、と四郎が教えてくれた従姉本人の情報については、必要ないだろうと思って語ることを省いた。


 四郎の従姉が、彼の前に現れたのは、夫たちから見捨てられつつあるからだった。


 加齢と、歳を重ねても落ち着くどころか奔放さに拍車がかかっている性格。


 男児しか産めていないことに相当なコンプレックスを抱いているらしく、女児を産んだ異父妹に辛辣な態度を取り、幼稚な嫌がらせを繰り返す。


 一方、自分が産んだ子供たちには無関心。夫たちのことは、便利なATMくらいにしか思っておらず、立場にあぐらをかいて暴力的な行動に出ることもしばしば――。


 女性は、加齢と共に男性からは見向きもされなくなっていく。男性側が子供を望んでいるのならば、なおさら。


 しかし年を取って子供が産めなくなった女性を捨てる男性もいれば、もちろんそうでない男女の関係というものもある。


 四郎の従姉の場合は、慢心ゆえに夫たちから捨てられかけている。


 それがわかるていどにはまだ周囲が見えているらしく、恐らく唐突に昔誘いに応えてくれた四郎を思い出したのだろう。


 従姉の本心は朔良にはわからなかったが、彼女はもしかしたら四郎が自分に惚れているだとか、まだ思ってくれていると勘違いしたのかもしれない。


 そもそも、四郎には従姉に対して恋愛感情の一切を抱いていないのだが、従姉の視点だとまたなにか違うのかもしれないと朔良は思った。


「四郎は大丈夫だと思うよ。その従姉さんは四郎の実家でもなにかやらかしているらしいから……そちらで対処することになると四郎が」


 千世の不安をぬぐおうと朔良が言葉を重ねても、彼女の顔は晴れない。


「不安かもしれないけど、四郎なら上手くやるさ。案外と要領がいいし」

「不安……じゃ、ない気がします」

「え?」

「あの……その従姉さんを見てから、ずっと、胸がちくちくするんです。四郎さんと従姉さんの話を聞いたら、もっと……」


 千世は、不安そうな声でたどたどしくも思いを告げる。


 朔良は、千世が抱いているのは不安だけではないということに気づいた。


 不安以外の感情――それは。


「……それは、『嫉妬』だと思う」


 朔良がそう言っても、千世にはピンときていない様子だった。


 それでも「嫉妬」が負の感情であるという認識はあるのか、千世は気まずげに目を伏せた。


「『嫉妬』……」


 千世は噛み締めるように、思い出すように、言った。


 父親のもとで長いあいだ感情を殺して生きざるを得なかった千世にとって、「嫉妬」は久しく感じていなかったものなのかもしれない。


「……なんだか、恥ずかしいです」

「どうして? 私からすると可愛い嫉妬だと思うけれど」

「そう、ですか? だって、四郎さんと従姉さんがいるところを見ただけで、こんな――」


 千世は「嫉妬」をことさら大きく捉えすぎだと朔良は感じた。


「……私だって、千世と四郎の姿に嫉妬するときはあるよ」

「――あ」

「同じだね」


 千世は朔良から「同じ」と言ってもらえたことで、少しだけ肩の力が抜けた様子だった。


「――ああ、もちろん千世が四郎だけを贔屓しているとか感じたことはないよ。ただ、それでも少し『うらやましいな』と思うときはあるんだ。……これはもう仕方のないことだと思う」


 人間としての社会性を身につけている以上、他者との比較や、それによって発生する感情諸々は逃れ得ぬ問題だと朔良は思っている。


 千世は、朔良の言葉に目をしばたたかせる。


「朔良さんでもそう思うなら、わたしにできることってない気が、します」

「それは私を過大評価しすぎだと思うけど。――そうだな」


 朔良は、再び目を伏せた千世を微笑ましく見る。


「正直に、言ってみるといいんじゃないかな。四郎なら喜ぶ」

「普通は、迷惑だと思うんじゃないでしょうか……」

「四郎が『普通』に見えるかい?」

「…………」

「私を信じて、言ってみてごらん。喜ぶ四郎の姿を見れば、きっと胸の痛みもなくなるさ」

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