(38)

 千世は、自分のことを聡い人間だと思ったことはなく、どちらかといえば肝心なところで、社会経験のなさから鈍感さを発揮してしまうタイプではないか――と思っていた。


「低ランク女でないと相手もされなくなったの?」


 そんな千世でも、彼女が悪意を持って四郎と自分にそんな言葉を投げかけたことは、ちゃんとわかった。


 女性保護局が入っているビルのエントランスホール。四郎に送られて女性保護局へとやってきた千世は、彼に付き添われて七瀬のいる課まで行こうとしていた。


 そこにやってきたのが、四郎よりも歳上に見えるくだんの女性だった。


 女性は四郎に親しげに――というか馴れ馴れしく――話しかけはしたが、彼に冷たくあしらわれると、ようやく千世に気づいたような顔をして、先のセリフを言い放ったわけである。


 千世には、女性がどこのだれかなのかはわからなかった。しかし、四郎の反応からして彼とは実際に顔見知りらしいことだけは、かろうじて理解できた。


「――ああ、ランク落ちして従弟いとこに媚びを売り、二〇歳にも満たない彼女に当たり散らさないといけなくなった君は、こんなところで油を売っていていいのか? じきに低ランク男にも相手にされなくなるのではないか?」


 千世とまとめて悪しざまに言われた四郎が、悪意を剥き出しにした言葉を返したのを見て、千世はおどろいた。


 四郎はどちらかと言えば、悪意をぶつけられてもそのままストレートに返さず、ひょうひょうとかわすようなイメージを千世は抱いていたからだ。……実際のところは、そうでもないのだが、千世の中で四郎はそういう人間だった。


 女性は四郎の言葉が頭にきた様子で、目を三角にし、顔を真っ赤にしておおいに歪めた。


 そして千世が「あっ」と思った瞬間に、女性は右手を振り上げる。


 そのままその右手は四郎の左頬を目指したが――


「は――はあっ?!」


 女性の手の平は、中空で止まった。


 どこか間抜けなポーズになった女性の腕を止めていたのは――千世の手だった。


「だ、だめですよ……」


 千世は、たどたどしい口調でそう言いながら、ハイヒールを履いた女性を見上げる。


 「暴力はいけない」――と言い募ろうとした千世に、女性は舌打ちをしてその手を振り払おうとしたが……それはできなかった。


 千世ががっつりと女性の腕を制止させている。


 千世と女性にはいささか体格差があったものの、鍛えている千世の握力は強く、女性の膂力では振り払えるものではなかったのだ。


 しばらく、千世の手を振り払おうとする女性と、四郎を守ろうとする千世との、少々間の抜けた攻防が繰り広げられる。


 それを止めたのは、四郎が低く笑う声だった。


「な、なに笑ってるのよっ」


 女性は怒りか、羞恥か、はたまた両方の感情からか顔を赤くさせたまま抗議する。


「あんたの女でしょっ! どうにかしなさいよ!」

「『あんたの女』だとか品のない言い方はやめたほうがいいぞ。ただでさえない君の品位をさらに貶めることになる」

「なっ……!」

「――千世。その手は放して大丈夫だ」


 ひとしきり笑ったあと、四郎は千世に優しく語りかける。


 千世は半信半疑といった様子だったが、「四郎が言うなら」とばかりにようやく女性の腕からその手を離した。


 女性はまるで自分が暴力を振るわれたとでもいうような顔をして、「ふんっ」と鼻息荒く千世から顔をそらす。


 四郎は目を細めて女性を見たあと、千世に視線をやる。


「ここは俺が収拾する。千世は七瀬が来るまで――ああ、やっと来たか」


 騒ぎを聞きつけたらしく、こちらに小走りにやってくる千世の担当官である七瀬を四郎は見やって、また千世に視線を戻した。


「いったいなんの騒ぎですか?」


 七瀬が四郎に疑惑の目を向ける。


 そんな七瀬に対し、千世はあわてて「ち、ちがいます」と説明になっていない言葉を口にする。


 しかし四郎としては七瀬からのそんな扱いは屁でもない。冷静に事態を説明する。


従姉いとこに難癖をつけられただけだ。話は俺のほうでつける。千世のことは頼んだ」


 千世は、そこでようやく四郎と女性の関係を理解した。


 千世は四郎を見たが、そこに不安そうな色が帯びていたのだろう。四郎はそれに対して目を細めて微笑む。


「詳しいことはあとでな」


 四郎は未だに憤った様子の女性――従姉に近づき、なにごとかを耳打ちする。


 四郎の従姉は赤くなっていた顔を、今度はわかりやすく青白くさせて、うなだれた様子で四郎に連れられ、女性保護局のビルを出て行った。


「……土岐さんって案外とひとの話は聞いてるときもあるし、妙に詳しい事情とか知ってたりしますよね……」


 七瀬のつぶやきなんだかぼやきなんだかよくわからない言葉を聞きながら、千世はじっと小さくなっていく四郎の背を見続けた。

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