(36)
売店で購入した飲み物を片手に、他愛ない会話に興じる。
千世は少し弾んだ声で水族館の感想を述べ、朔良はそれを微笑ましく思いながら相槌を打ち、耳を傾ける。
ふと朔良が四郎に視線をやれば、存外と穏やかな顔をしているのが目に入り――。
「……いつの間にか、土岐さんも一緒にいるのが当たり前になってきているような……」
気が付けば、ほとんど独り言にも似た言葉が朔良の口からこぼれ落ちていた。
二対の目が自分に向くのが、朔良にもわかった。
朔良がそれを言ってしまったあとで抱いたのは――後悔ではなく、納得だった。
定番になったと言うべきか、馴染んできていると言うべきか。
とにかく四郎が混ざっていることに対して、朔良は拒否感や違和感といったものを抱いていない自分に気づいた。
「……そうですね」
千世が穏やかな声で答える。
「こんな日が、ずっと続けば」
千世の本音だろうその言葉には、どこか凪いだ海のような穏やかさの中に、いささかの切実さが伴っていた。
千世は、どこかで不安に思っているのかもしれないと朔良は思った。
幼いころはきっと信用していただろう、他でもない父親の手で千世の人生は著しく捻じ曲げられた。
それ以前には理不尽にも母親を奪われて、当たり前だと思っていた日常が容易く崩れる恐怖を、今でも千世は抱いているのかもしれない。
朔良は、四郎がいることに対して拒絶感を抱きはしなかったものの、当の四郎がどう感じているかは、当たり前だがわかりはしない。
以前よりは得体の知れない男ではなくなったものの、やはり捉えきれないところは、ある。
だから四郎が日常会話の延長のような調子で言い放った言葉に、呆気に取られた。
「なら、三人で結婚するか?」
「――え」
「三人で結婚して、一緒に住めばまあ今日みたいな雰囲気は出るだろう」
四郎の言葉は、冗談にも聞こえたし、本気にも聞こえた。
「ひとつ屋根の下に複数の夫が住むのは少数派らしいが」
続く四郎の言葉を聞いて、朔良は今千世と暮らしているマンションに、脳内で四郎の姿を描き加えた。
案外と――しっくりくるような気は、しないでもない。少なくとも、嫌ではなかった。
千世は四郎の言葉に、朔良同様しばし呆気に取られた様子だ。
しかし丸くなっていた目はすぐ元通りになって、やがて代わりになにかを決意したような色合いを帯びる。
「――土岐さん」
「ん?」
「わたしが……土岐さんとお付き合いしたいと思っていると言ったら、どう感じますか」
千世はたどたどしい口調でそう言い切ったあと、すぐに「いえ」と打消しの言葉を口にしてから、改めて四郎を見据えた。
「わたしは――土岐さんのこと
今度は強気に、愛の告白を言い切る。
それを聞いた四郎は、興味深そうな目で千世を見て、口角をわずかに上げた。
「本気か?」
「本気です」
どこか挑戦的な目で千世を見ていた四郎だったが、彼女の返事を受けると、やがてその目じりが和らいだように、朔良には見えた。
「いいぞ。――お前の『忠犬』になるのも、悪くはない」
「犬じゃなくて人間としてお付き合いしたいのですが……」
「はは、もののたとえだ」
朔良は、四郎の返事に「なんだそれ」と脱力感を覚えた。
たしかに四郎は「狂犬」などにたとえられていたし、また千世の告白に対する返事としては、四郎らしいと言えば「らしい」。
「お前たちといるのは結構楽しい。――それはそうと」
四郎は千世のいるほうへ改めて向き直ると、顎を引いて頭を差し出すような姿勢を取る。
「『忠犬』になったのだから、撫でてくれ」
……あのとき、それほどまでに千世から撫でられなかったことが心残りだったのだろうか?
朔良には四郎の本心など、やはり見透かすことはできなかったものの、千世に撫でられて、かすかに目を細めている四郎を見ると、なんだか自分の心が解きほぐされていくような気になった。
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