(28)
千世と朔良が暮らすマンションには、内部にジムがある。
朔良は今、そこに向かっていた。
それと言うのも千世が未だジムから部屋に帰ってこないからだ。
朔良がこれまで千世と接してわかったのは、彼女は規範などには忠実で、生真面目な性格ということである。
つまり、約束した時間までに部屋へ戻らないのは千世には似つかわしくない行動だった。
しかしここのところの千世からすると、残念ながら天変地異が起こるほどの珍しさ――というわけではない。
「ごめんなさい……」
受け付けで会員証を出しつつ説明すれば、話が通るのはスムーズで。
出入り口から控えめに朔良に声をかけられて、ランニングマシンにいた千世は朔良を見たあと時計に目をやった。
それまでであれば、朔良が女性保護局から帰宅する時間までには千世は部屋に戻っていた。
そのあと、夕食の席を一緒にするという暗黙の了解もあり、千世は急いで着替えてきて、朔良に謝罪した。
朔良はそれに「時間内に戻ってないと心配になる」とは言いはしたものの、千世を叱ったりはしなかった。
千世はあからさまに落ち込んでいて、己の失態を悔やんでいる様子だ。そこに、余計な言葉を重ねるほど、朔良は無神経ではない。
しかし、千世に言いたいことは色々あった。けれども、千世の性格を考えると、くどくどと言うのは憚られる。
ここのところの千世は、ジムにこもっている時間が明らかに長く、少々オーバーワーク気味だった。
体力が有り余っているというよりは、体を動かすことで雑念から解放されたいのだろう。
千世の父親違いの兄――佐藤優吾の一件以来、千世はそんな感じだった。
あの場に千世は同席していなかったが、それは正解だと朔良は思う。
佐藤優吾の目的は、千世を出世の道具として使うという、とうてい通常の道徳心や倫理観では許容できないものだったのだから。
朔良は、佐藤優吾の言葉で千世が傷つけられなかったのは良かったと思っている。
けれども、千世にことの顛末を聞かせないという選択肢は取れなかった。
佐藤優吾は四郎に脅しつけられたが、千世を完全にあきらめたのかどうかはわからなかったからだ。
もしまた、佐藤優吾が千世に直接接触してきたときに、兄の思惑を千世が知らないままというのはあまりに危険すぎる。
千世の身を守るためには仕方のないことだったが、できれば伝えたくなかったという思いも、朔良にはあった。
千世が傷つき、落ち込むのはわかりきっていたからだ。
けれども、佐藤優吾の一件のその顛末は、千世には必要な情報だ。
「そうですか」
佐藤優吾の――朔良や四郎からすると――お粗末な動機やその顛末を聞かされた千世は、やはり落ち込んだ様子で目を伏せた。
佐藤優吾と相対して、なお「なんとなくイヤだ」という結論を千世は出してはいたが、だがどこかで少しは期待してしまっていたのだろう。
「なんとなくイヤだ」という直感が外れて、佐藤優吾がごく普通の、妹思いの善人であることを。
そう考えると、今回の一件は千世には酷な結果となってしまった。
「朔良さん、七瀬さん、土岐さん、ありがとうございます。兄について、いろいろと調べてくださって」
それでも千世は気丈な態度で頭を下げ、三人に礼を言った。
だがそれは朔良の目には痛々しく映った。
千世は帰宅して朔良とふたりきりになっても、悲しいとか、がっかりしただとか、そういった感情を吐露したりはしなかった。
しかしその日以降、千世はマンション内にあるジムで大部分の時間を過ごしているようだった。
同年代の女性より、千世は遥かに鍛えた肉体を持っているが、それでもオーバーワーク気味ではないかと朔良は気にかかった。
けれども朔良は千世にどんな言葉をかければいいのか、自分の不甲斐なさが腹立たしくなるほどに、わからなかった。
否、言葉ですぐに癒せるほど、千世の傷は単純なものではないだろう。
かと言って時間で解決させるという選択肢には、無力さを痛感せずにはいられない。
「あのあと、どうだ」
そんな中で、朔良は四郎と女性保護局内で会っていた。
現在朔良が受け持っている女性がストーカー被害に遭っており、彼女の警護を四郎も担当しているからだった。
ひと通りのミーティングを終えれば、四郎から先のセリフが投げかけられた。
朔良は、主語がなくとも四郎がなにを問うているのか理解できた。
「さすがに落ち込んでいる様子で……」
四郎も一応は当事者だ。朔良はそう思って今の千世の状況をかいつまんで話した。
「色々と持て余しているようだな」
「そうですね……。引き続きケアはしていきますけれど、今は時間が経つのを待つしかないんですかね」
土岐四郎に相談をしている。
朔良は、その状況を俯瞰してなんとなく奇妙さを覚えた。
「護衛官にならなければただの犯罪者として一生を終えていただろう男」――。
そして朔良も、四郎を「理性ある獣」と評した。
けれども千世を介して四郎との付き合いが生じている今は、その評価は少しくらい変えてもいいかもしれないと、朔良は思い始めていた。
「……ひとつ提案があるんだが」
「なんですか?」
そうして四郎が口にした「提案」に、朔良は戸惑った。
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