幕間 任命、当主の妻。(トロイ視点)
ドアを開けるかすかな音と、体に感じたベッドの軋みで、あの男が帰ってきたことに気が付いた。
まどろむ意識の片隅で、男の……夫の、深く長いため息を聞く。
彼はかならず私が眠ったあとに眠り、私が起きたあとに起きた。
しかし、私は毎朝、彼の寝顔を見るが、彼は私の寝顔を見ることも無く、ベッドにもぐりこむと蓄積した疲労から、すぐに目を閉じてしまう。
夫婦生活という意味での『同衾』が果たされるのはいつになるのやら。寝息のふりをして、こちらも鼻から息を吐いた。
意図して白い結婚を続けるつもりなのは分かっている。
まあ、今しばらくはいいだろう。
こちらにも、彼の妻として送り込まれた目的があるのだ。
しょせんは政略結婚。夫は夫である前に、当主という役職があり、私はそれに仕えるひとりであり、この家を回す歯車のひとつでしかない。
ただ、当主の側に配置された、というだけ。
――――今代の当主は『繋ぎ』である。
義姉には、この『妻業務』に任命されたとき、そう説明された。
ここ三代ほど、当主の選出には『
それぞれの家には、それぞれの得意分野があるが、いうまでもなく『
対する『
当主になるのがどの家になるかで、一族はその方針が変わる。
当主選別に、全員参加の決闘方式を取るのは、同じ家が続いて権力を握り続けることを防ぐ目的もあった。
じっさい、序列上位という特権を握り続けた『
技量ではなく、ただ、血縁だけで選ばれた後継者。それは一族の質を落としかねない悪しき流れ。この家が代々孤児を育てて繁栄を保ってきたのは、なんのためなのか?
――――『どうせ次の当主もまた
そうして
『
だから、もし『
これは、前当主家としての責務であると。
尊敬する義姉と私の意思は、父の死の瞬間から決まっていた。
「意外とやるぜ、あいつ」
義姉は言った。その言葉が出たのは、城へ行った姉と夫が慌ただしく明け方に帰ってきた、その日の夜のこと。
姉は正直な人だから、驚いたのを覚えている。真意を聞こうと思っても、その日は姉も夫も、私ですら慌ただしく、よくわからなかった。
けれど、家内のことに観察を続ければ、だいたい理解するようになる。
下位の序列であったのに、使われる側であったのに、彼は、『使う側』としての適格があるのだと。
まるで長年そうしてきたかのように、一週間前まで頭を下げていた人々を、『うまく』動かしていくことができる人物が、何人いるだろう。
まず命令の伝達に義姉を使うのが、うまい手だ。
もともと序列の高い『
義姉はもとより、当主の風避けとして働くつもりで内宮での職をなかば辞し、当主の側についたのだが、説明するまでも無く、彼は義姉の使い道の『正解』を導き出したのだ。
だから義姉は、『意外とやるぜ』なんて、現状最大の賞賛の言葉を口にしたのだろう。
――――私は、前当主のもとで育てられた娘である。
『
義父の築き上げた基盤は、複雑な構造ながらも円滑に、凶器になるほど速く回っていた。
あの基盤は、義父の死によって破壊されたものの……私が手を出さずとも、家内は夫を中心に、崩壊した義父の基盤の残骸をもとにして新しい基盤をつくり、ぎこちないながらも回りつつある。
夫は、どうやら幸運にも、当主業務に適格があったらしい――――。
婚姻から二週間。私もそうそうに、そう結論せざるを得なかった。
私は、そう遠くない日に、彼の子供を望むようになるのかもしれない。
そうなった時、私は私の体に隠した暗器や毒を、箱にしまって鍵をかけるだろう。
逆に、明日にでも次の当主を望んで、眠る彼に枕とナイフを押し付けるかもしれない。
その可能性は、いまだゼロではない。
それでなくとも、私たち以外に彼を見極めようと動いている勢力が、その首に手を掛けるかもしれない。
(想定されるとしたら、『門番』かしら。どの勢力も、彼らの判断を待ってから動きたいはずだもの)
『門番』は、一族のために働くことが役割の家だ。当主選抜の儀式の運営でもある。
彼らが不適格としたなら、それを大義名分にして当主の寝首をかくことができるようになるだろう。
朝日に照らされる彼の寝顔を指先でつつきながら、思う。
(さて、旦那様。始まったばかりの『当主業務』。
……まだまだ、お手並み拝見といきますよ)
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