第10話 自分がアホって言うのはいいけど他人がアホって言うのは「うるせっ」てなる現象。


 第二王子の宮は広い。

 なんせ内宮はずれの一角にある三階建ての一棟まるごとが、『自室』として与えられている。

 王子が実際に使用しているのは数えるほどの部屋数だが、その気になれば、ゆうに三十人ほどは宿泊可能であるだろう。

 複数ある応接室のうち、常に解放しているこの一室。

 王子は自分の宮に人を招くよりも、自分が招かれるほうを好むため、ほとんどおれや護衛たちをはじめとした『お付き』の待機場所となっている。


 べそをかく王子が落ち着いたので、おれは立ち上がって、調度品のひとつであるキャビネットを漁った。

 勝手知ったる職場なので、そこに何があるのかは重々承知だ。


「さいきん訓練もサボっておいでだったでしょう」

「そ、そんなことはないぞ! ……ちょっとだけだ」


 振り返ると、そっと目をそらす王子がいた。


「叱るつもりはありませんよ。殿下の外遊びは必要なことです。さいきん夜のほうは? 」

「よく眠れている。……クララのおかげだ」

「それはようございました。週に三日だけでも、熟睡できるのとできないのとでは、大きく違いますから」


 クララは、殿下お気に入りの例のお姉さんである。

 『湖の乙女』は……まぁ、言葉を濁して言えば、ゆっくりと広い風呂に入れるのと、湯上がりのマッサージが売りの店で、我が一族の『練習場』のひとつでもあった。

 『若犬ヤングドッグ』が夜の街に馴染むための経験を積むためのひとつのステージであり、日々に身の危険がつきまとうような、やんごとなき御方にも安心してご利用いただける『安全な店』なのである。

 そしてクララは一族の人間ではないが、十五年勤務している古株で、親しみのある癒し系タイプの女性だ。


 そんな彼女の隠しメニューは、温泉湯上り膝枕からの、耳掃除のち寝かしつけのコンボ。

 彼女が香油と耳掻きを持てば、重い不眠も解消するといわれるゴッドハンドの持ち主。

 そんな噂を聞きつけて、最近では貴族女性から、治療目的のお呼ばれもあるほどの逸材であった。



 ――――そう。王子は不眠症に悩まされている。

 その身に宿した特異な能力によって。




「準備ができました。殿下、よろしいですか? 」


「ああ、いつでもいいぞ」


 ばさりと腕の中でおれが広げたのは、麻糸で綴じたメモの山だ。

 高価な紙を使って記録されているのは、その日の天気と王室行事や学校行事などの、ざっくりとした殿下のスケジュール。

 それが紙一枚ごとに三十日ぶん、小さな文字でびっちりと書かれている。


 そしてもう一つ机に広げるのは、おれが肌身離さず持っている日記帳。この小さな手帳の中に、十二年分のおれの愚痴が、暗号化されて詰まっている。



「久々なのでウォーミングアップしましょう。三か月前、オレンジソースのチキンが出た日の天気は? 」


「それは夕食だったな。朝すこし肌寒かった日だ。霧が出ていた覚えがある。湿気でシーツが冷たくて不快だった。昼前には嫌になるほど暑くなって、曇りはじめた。夕方から雨。……簡単すぎるぞ」


「わかりました。では五千と二十一日前。晴天から曇りのち雨。この日の夕食のデザートは? 」

「……ちょっと待て」


 そう言って目を閉じた王子の口は、かすかに音無くつぶやいている。いまごろその頭の中では、膨大な記録を順番に紐解き、該当のページを探すということをしているのだろう。


「……夜に雷が鳴った日だ。温かいミルクをかけたバニラの香りのプディング。はちみつのようなソースが浮かんでた」


 低く静かな声色で、王子は言う。


「はい。では次。三千と五百一日。デザートはなし。訪問者は? 」


「デザートが無かった日? ……ああ、訪問者はお前」


「訪問の目的は? 」


「式典での護衛について」


「のってきましたね。次は―――――」



 これを五回分繰り返した。


 答え合わせをするおれの情報源は、宮に置いてある日誌、自分の日記と、自分の記憶。

 記憶術にかけては我が一族も一言あるが、王子のそれは精度を大きく上回っている。

 おれは王子の言葉でもって、ようやくその日の自分の仕事を思い出すのに、王子はその気になれば、交わした言葉の一語一句を口にできる。


 その日の天候の肌感触と、味わった甘味を栞がわりに、生まれてからこれまでの膨大な記憶を整理し、引き出す。


 『才能』――――そう表すしかない、唯一無二の記憶力。



 ……それでは、そろそろ本番といくか。


「二千十一日前。デザートはチョコレート味とだけ。その日、まだ部屋に銅貨を入れた箱はありますか? 」


 その日付は『偽銅貨騒動』があった三日後だ。目を閉じた王子はまた音のない呟きを唱えながら、瞼の裏でその日の寝室に舞い戻る。


「デザートはチョコレートのプティング。部屋に戻ってホットチョコレートをもらう。おかわりして二杯飲む。小箱はある。シーツのひだが同じ形。じゅうたんの毛並みも変わらない。開けられた形跡はない」


「では少しずつ今へ近づいていきます。……レモンケーキ、林檎のコンポート、林檎のタルト、卵のケーキ……」


 王子の頭の中で、一日ずつ、寝室の様子が浮かぶ。季節は夏から秋へ……。


「……干しブドウのはちみつ漬けのタルト、干し杏のバターケーキ、くるみのキャラメルのタルト……」


 秋から冬へ……。


(……お腹すいたな~)


 三年分が進み、四年目に到達しようとしたときだった。


「……カスタードタルト、ブルーベリーケーキ、ベリーの」

「――――ブルーベリーケーキの日だ」


 王子が薄く目を開けた。


「ブルーベリーケーキの日、じゅうたんに跡がある。ベッドの下に誰かが潜った」

「それは誰だと思います? 」

「ブルーベリーケーキ、ブルーベリーケーキ、ブルーベリーケーキ……」


 王子の瞼がまた閉じられ、眉間に皺が寄る。


 その日、誰が王子の周囲にいたか。そして、誰がいなかったか。



「お手柄です。殿下」


「……捕まえられるか? 」


「必ずや」


 ―――――さ~て! 仕事するかぁ~!



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