5
僕は本当に眠くは無かったが、なんとなく目をつぶっていた。瞼の裏に白い光を感じ、暖かい暗闇の中に僕は居た。ねえ、と僕を呼ぶ声が、どこかから聞こえた。……当然、その声の主は、彼女だった。
「ねえ、あなた、セックスしたこと、ある?」
「は?」
「だからさ、童貞かどうか聞いているのよ」
「どうしてそんなこと聞くんだよ」と僕は驚いて訊いた。
「ふうん」と彼女は何かに納得するように唸った。「じゃ、童貞なんだ」
「……まだ何も言ってない」
「ちゃんと経験ある人は、『そんなこと』なんて言わないのよ。でも、仕方ないわね。したことないなら、嫌悪感とかあっても、しょうがないもの。……私もそうだったしね」
「ちょっと待ってくれよ、確かにしたことないけどさ、どうしてそんな……」
僕は言いつつ、その先の言葉を探していた。やっと見つかった言葉は、なんだか情けなく、それを俯瞰した僕の冷笑と、カメラの視線とが、僕を無慈悲に突き刺した。
「……これも、童貞の反応?」
「うん」と彼女は笑って言った。
「でも、本当に、どうしていきなりそんなこと……」
すると彼女は、目だけを動かして、周囲の壁を見渡した。僕の意識を侵食し、存在の輪郭さえ曖昧にしようとする、その『壁』を。彼女の顔に纏わりついた笑顔は、輪郭を失わずに、その存在を誇示していた。確固たる自分、そういうものがあれば、こんな場所でも存在が許されるのだ、と僕は思った。
「なんか、……あれみたいだなって。セックスしないと……ってやつ」
僕は呆れて笑ってしまった。
「なんだよ、それ」
呆れつつ、しかし僕の存在が壁を突き放し、彼女の方の世界に引き入れられる感覚があった。その時、僕は自分の中にある、彼女への憧れに気が付いた。僕を充たすばかりの『無為』は、白い壁の容姿を纏って、しかしその中身は暗闇そのものだった。そして、それらを消し去る彼女は、白い壁と相反しながらも、確かな明るさを持った、白い光に違いなかった。
「どうして笑ってるの?」と彼女は言った。
「いや、君はきっと、ペシミストじゃないと思っただけさ」
「どういう心変わりよ、それ」
「さあね」と僕は壁を撫でながら言った。
その時、再び蘇ってくる『無為』を感じた。僕はおそらく、彼女のようにはなれない。そういう思いが、『無為』の確かな形として、僕を充たした。壁が膨張し、僕を圧迫した。僕は、自分の手に触れた壁の冷たさを思った。白い壁は、少しの光さえ、含んではいないのだった。……
急激に眠気が訪れた。
寝る、と僕は言った。やっぱり眠かったんじゃない。彼女の声は、音を纏わずに、ただ僕のぼんやりとした脳内で、文字として再生された。いや、やっぱりねむかったんじゃない、と僕が言ったのかもしれなかった。寝る、と言ったのは、僕でなく、彼女で、しかし今眠ろうとしているのは僕で、彼女は困惑しているのかもしれなかった。やがて、意識が白い光に包まれていくのを感じた。眠りはいつも優しかった。
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