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何かの置かれる、硬い音で目が覚めた。食事の時が来たのだった。
中途半端な覚醒にぼやけた意識が、メニューを見つめる。パン、スープ、コップ……スープの具が、先程と違った。赤いスープで、おそらくトマトスープだった。豆類が入り、ジャガイモも入っていた。色彩は、食欲を誘った。僕は訝った。それが、美味そうに見えたからだった。
調査員らには、一貫したものなど無いのだ、とその時思った。だとしたら、僕の中を充たす無為は、いよいよ悲劇的に膨張し始める。実験には目的がない、という考えが、無為の具体的な形として浮かび上がる。
「私、トマト嫌いなのよね」と彼女は溜息をつきつつ言った。
「要らないのか?」
「スープ無くなると、何も食べるものが無いじゃない」
「パンがあるだろう」
「何も、というのは、ゼロ、ではないのよ」
「ふうん」と僕は適当に頷いた。
僕は虚しさから逃げるように、二十万の使い道を考えてみた。あらゆる無為も、時給換算にしたならば、意味を帯びてくる。二十万……僕程度の人間の欲しがるものならば、大抵のものが買える。風俗に行ってもいい。しばらくまともなものも食べていなかった。高い肉を食べたっていい。……
そのように使い道を考えていると、果たして報酬が割に合っているか、余計わからなくなった。女を買っても何も残らないし、肉は結局排泄される。僕は今、そうした「無」を、時間で買おうとしている。
僕は一体何をしているんだろう。それは、今この瞬間の話ではない。もっと、この頃の僕全体の話だった。思えば、僕は大学に入って以来、何をしていたこともなかった。常に、昼間は暗い意識の底に身を横たえ、日が沈むと、目を覚まし、暗い部屋の中で本を読んだ。高校を卒業して以降、緩やかな死の希求があった。フロイト的に言うのなら、「死の欲動」が。しかし、それは自殺願望とは違った。僕は、普段適当な生活を送っていたけれど、時々、取りつかれたように、健康な生活を営もうとすることがあった。それは、病気を恐れてのことだった。つまり、僕は病気に罹患し、死が目前に迫るのを、恐れていたのだった。それは、「死の欲動」と矛盾しない。何故なら、僕にあったのは、緩やかな死の望みだったから。別に死にたくはない、だけれど、今、何も苦しまず、刹那の内に意識を失って、息絶えることが出来るのなら、あるいはそれでもかまわない、その暗闇へと、歩いてみたい……そういうものだった。
僕がそういう死生観を語ると、数少ない友人は皆、気味悪がった。確かにそれは当たり前のことだったが、僕はそういう感覚が、普遍的である気がしてならなかった。
リストカットというものを、僕はそれまで否定的に見ていたが、少しだけ理解できるようになった。痛みで、傷つけることで、自己同一性を確保する。冷たい刃の先に光る血で、つまり、その死の予感めいた赤色で、自己の生存を知る。そうしなければ、自分が生きているのかさえ、わからないのだった。……
ふと、僕は彼女の方を見た。彼女は、黙って考え込む僕のことを、ジッと覗いていた。
彼女のスープが少し減っていた。我慢して飲んだが、飲み干すのは諦めたのかもしれない。
「眠いの?」と彼女は言った。
「え?」
「さっき、起こされたでしょ? 眠いから、全然食べないんじゃないの?」
「ああ……」と僕は自分のトレーを見た。確かに、全然食べていなかった。「別に、そういうわけじゃないよ」
「そう」と彼女はなんでもなさそうに言った。
彼女はトレーの上の食器を整理し、入口近くに置いた。あなたは? と僕に聞いた。僕は急いで残りを口に放り込み、トレーを床に滑らせるようにし、渡した。やがて調査員がやってきて、トレーを回収した。一瞬入り込む、部屋の外の空気に、異質な臭いを感じた。壁、と僕は思った。……
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