3


 僕は立ち上がり、スープの少し残った皿を持ち上げ、出口付近に置いた。彼女ももう飲む気配がなかったので、中身を僕の皿に移して、重ねて置いた。金属の触れ合う音が、僕達の間で小さく響いた。女は吐き散らした不満を拾い集めるように沈黙し、僕のことを眺めていた。ここでは、何かを見ることくらいしか、やることがないのだと、その時ふと思った。カメラもまた、僕達を見ることのみをしていた。やがて調査員がやってきた。トレーを回収し、何も言わずに出ていった。

「こうしてみると、絶対に犯罪なんてするか……って思ってくるな」と僕は腰を下ろして言った。

「どうして?」と彼女は不思議そうな目で言った。

「だって刑務所なんて入ったら、ここまで酷くなくとも、毎日がこんな感じだろう? いい加減スマホ触らないと、おかしくなるな。自分で選んだのに、やっぱり自由が恋しいような気がする」

「確かにね」と彼女は言った。「でも、私達は腕を縛り付けられてるわけでもないし、思考を狭められているわけでもないでしょう? ……例えば、拷問されて、考える力を奪われたり」

「まあね」

「そういう意味で、私達は自由なのよ」

「今度は楽観的なんだな。一貫性がないよ、君」と僕は床を見て言った。

「別に私は楽観的に、自由を見ているわけではないわ」

「どういうこと?」と僕は訊いた。

「ほら、サルトルの有名な言葉があるでしょう? 人間は自由という刑に処されている……人間は、自由であることをやめる自由を持ってはいないのよ」

「今僕達は自由だけれど、それは別にいい事でも何でもない。自由の呪いにかけられている……そう言いたいの?」

「簡単に言えば」と彼女は言った。

「簡単に言葉にしても、それでも簡単じゃないな」と僕は笑って言った。

 僕は自分がここから脱走することを考えてみたが、それは上手くいかなかった。そんなことをしても、意味は何もないからだ。空想をし、そういう選択肢の並ぶ世界に沈潜する、それが本当に自由と言えるのだろうか、と僕は思った。確かにそれはサルトル的に自由かもしれない。哲学的に自由かもしれない。でも、実生活はもっと単純に、簡単に、表面的であるはずだった。僕は今、自由だけれど、自由ではなかった。つまり、哲学的に自由で、現実的に不自由なのだ。僕の上には黒い布が覆われていて、その中には自由と不自由、二つの状態が存在した。つまり、僕は量子力学的に自由とも不自由とも言えないのであり、そのような完全なランダム性の中で、僕は自由にも不自由にも捕らわれておらず、その意味で僕は何よりも自由なのだった……。

 と、その時、乖離していく思考に気が付いた。彼女が僕をジッと見ていた。僕は首を振り、小さく息をついた。こんな風に我を忘れて何かを考える、というのは確かに自由かもしれない、と僕は思った。それもまた事実だった。

「そういえば」と彼女は言った。「あなたは、何学部なの?」

「法学部」と僕は投げ捨てるように言った。

「弁護士になるの?」

「まさか。僕の大学で弁護士になろうなんて人間、ほとんどいないさ。いたとしても、そいつらは他大学の大学院に行くだろうな」

「じゃあ、何になるの?」

「……君は小説家になるのか?」そう言いながら、僕はカメラを見、監視されていることを意識した。「そういうことだよ。何になりたいとか、そういう問題じゃないんだ。別に、なんだっていいんだけどさ、しいて言えば、何にもなりたくないな、僕は」

「そういうの、わかる気がするわ」

「本当?」

「ええ」と彼女は頷いた。「何にもなりたくない……うん、そういうの、少し腑に落ちるところがあるわね。何かになるなんて、そんな責任負いたくないもの。きっと、大人になりたくないのね」

「君は何年生?」と僕はふと気になって尋ねた。

「……どう見える?」

「男にそれを訊くのはやめた方がいい。誰も得しない、君も、僕も」

「別に怒りはしないわよ」

「だとしてもさ」と僕はおでこの辺りを手で覆いながら言った。

「ふうん、そう。まあ、答えを言うと、一年生よ」

「一年生? あの一年生か?」

「え? どういう意味?」

「てっきり僕は同い年くらいかと……」

「あなた何年生なの?」

「四年生」と僕は少し自棄になりつつ言った。

 僕のやりきれない思いを感じ取るように、彼女は押し黙った。空間が重くのしかかり、僕という存在の輪郭が曖昧になっていった。あらゆる存在が乗っかるテーブルから、僕が落ちていくような、存在しなくなっていくような感があった。

「まあ、でも、二歳とか三歳とかの違いでしょう? 誤差じゃない、そんなもの」

「……誤差、ね」と僕は溜息と共に言葉を吐いた。

「誤差」の「ご」が口先で固まり、中々外に出ようとしなく、僕は自分が動揺していることを思った。そして、それを見ている目のことも。……違う、カメラは、本当に僕を見ているかどうかなどわからない。とすれば、僕を見下ろし威圧するのは、僕自身だ。僕は自分自身に監視されているのだ。

「そんな落ち込むことじゃないでしょう。どうしたの?」

「この無為に、今更ながらこたえてきただけさ。……何しろ、時間は有限だからな」

「まあ、四年生のあなたが言うなら説得力もあるわね」

 彼女の諧謔的な言い回しは、僕の心を少しだけ傷つけた。おそらく彼女は僕をなごませようとしているのだが、そういう気づかいは、僕をより惨めにする。それを上から俯瞰する僕と彼女とが、揃って僕を非難しているような、そんな気がした。

 この背景の曖昧な空間に僕を押し込める無為が、僕という存在の外殻を破り、内部までもを充たそうとしていた。その無為は、脳機能の抑制さえ成し遂げた。無為は、やがて僕の感情さえも漂白してしまうだろうと思われた。そうなる前に、ここを出なくてはならない、と僕は強く思った。

「あと、二日と少しか……」

「何、もう音を上げるの?」と彼女は笑って言った。

「君は平気なのか?」

「まだ平気ね」

「それは、君が時間に無限性を見出しているからだろう?」

「無限性?」

「僕は一年生の時、まだ僕には時間があると思っていたよ。……もちろん、時間が有限なことは知っていたさ。でも、それは仮の有限性で、本当のところは、時間がまだまだ先に延びていると思っていたんだ。……そういうことって、ないか?」

「一般的に言えば、人生は儚いものでしょう? そんなこと、考えたことないわ」

「……そうか」と僕は言った。そして目を閉じ、そのまま壁にもたれて、眠ろうと思った。

 壁、と僕は思った。眠りが目の端にちらつく中で、壁という観念は僕を捉えた。壁は、人間存在の最も根本的なものだ。例えば、僕という実存と空間の間には隔たりがあり、それらは「壁」と端的に表現が出来る。僕を形作る細胞と細胞の間にも、まさに「壁」がある。僕と彼女との間に、精神的な隔たり、つまり「壁」がある。僕の知るものと僕の間には常に隔たりがあり、知らない物との間には、認識の「壁」がある。壁に隔たれた状況こそ、人間が現世において置かれた根本的な状況なのだ。僕は壁を後ろ手に触り、意識的に、外部と部屋との隔たりを思った。壁、と僕は思った。……

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