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 それから、何も喋らず、ぼんやりと過ごした。時間の歩みは酷く遅く感じられた。が、しかしとにかく、時間は確実に、前に進んだ。

 食事が運ばれた。床のトレーには、パンとスープとコップのみが置かれていた。質素この上ないメニューだったが、僕も女も文句は言わなかった。何故かはわからないが、不満に思うことすら、少なくとも僕にはなかった。コップは茶色のもので、中に入っているのが水なのか、それとも麦茶なのか、わからなかった。しかし、おそらく水だろうと僕は思った。最初の食事の際与えられたのは、水だったからだ。

 調査員はトレーを床に置くと、やはりすぐに部屋のドアを閉め、どこかへと去った。僕はなんだか、自分はペストにでも罹患したのではないか、という気分になった。鏡があったら、僕はきっと自分の肌の色を確認したに違いない。しかし、この部屋で鏡に相当するものなど、女の瞳くらいのものだった。僕は自分の頬を撫でながらパンを齧った。

 僕達は、ほとんど何も喋らずに、食事を続けた。激しくうるさい無音だった。パンは微かな塩味の他、味がしなかった。決して不味くはないのが、計算づくだなと僕は思った。上手いものを提供してはいけない、しかし不味くあってもならない。そういう微妙さは、僕達の根本的な何かを蝕む。それが何かは、わからないが。……

 やがて、女がスープを飲む音が、無音を突き破った。しかし、その後再び無音が訪れた時、その激しさは一層増し、僕の鼓膜を揺さぶった。僕は頭痛を感じ、目を瞑った。

「どうしたの?」と彼女の声がした。「どこか具合が悪いの?」

 僕は目を開いて女を見た。数秒暗闇に居ただけなのに、光が目の中に入ってくる眩しさを感じた。

「別に、大丈夫だよ」

「本当?」と彼女は心配そうに尋ねた。

「どうして僕が、そんなことで嘘をつく?」

「嘘はつかない?」

「あまりつかない」

「ふうん」と彼女は訝しんで言った。

「僕は人並みにしか、嘘はつかない」

「それって、沢山嘘をつくってことじゃないの?」

「違うさ」と僕は言った。

「人並みの人間は、多かれ少なかれ、嘘にまみれてるものでしょう?」

「随分ペシミスティックなんだな……、僕はそうは思わない」

「よく言われるわね」と彼女は僕の肩あたりを見ながら言った。「お前は悲観的すぎるって。実際、自分でもそう思うの」

 僕は笑いつつ、自覚的な厭世家だなんて、とチグハグな印象を持った。が、それらは矛盾しているわけじゃなく、もちろん同居しうる観念だった。それでも、僕はそれを変だと思った。まるで、肉食獣と草食獣が、狭い檻の中で共生しているような……。

「君は、大学生?」と僕はなんとなく尋ねた。

「ええ、そうだけど。……あなたもそうでしょ?」

「うん」

「どこの大学に通っているの?」

 僕は自分の通っている大学名を答えた。なんてことのない、私立の中堅の大学だ。世間の認識はまあまま。学歴厨が「Fラン(笑)」と揶揄するくらいの偏差値。可もなく不可もなくの典型。そういう大学だった。

「君はどこの大学に?」

 彼女も大学名を答えた。それは、近くにある国立大学で、当然僕より上の偏差値の大学だった。確か、法学部はかなり名門で、弁護士を昔から多く輩出しているはずだった。僕は彼女が人を弁護している姿を浮かべ、すぐにそれを打ち消した。彼女は、そんな風に人と関わろうとしないだろう。何故かはわからないが、ほとんど確信のようにそう思った。

「大した大学じゃないわ」と彼女は寂しそうに言った。「誰も、何にも興味を持っていないの。大学生ってそういうものなのかな。……ありえる? 私文学部なんだけど、仏文科なのに、ジッドも読まないような子しか周りに居ないのよ。そういうのって、なんだか馬鹿らしいし、私も流されそうで、それで……」彼女は少しだけ黙った。沈黙の重さを測っているようにも見える。「とにかく、質の良い学生なんてほとんどゼロね」

「ジッドを読む大学生は珍しいだろうけど、文学部だもんなあ」

「みんな馬鹿よ。私だって馬鹿だけど、絶望的な馬鹿ではないわ。……はあ。ねえ、あそこでは、少しでもマシな馬鹿を探すのは、本当に苦労するのよ。砂漠で一粒のダイヤモンドを探すみたいなものよ。ダイヤモンドはまだいいよ、砂漠のどこかには埋まっていて、それを探すんだから。でも、こっちはどう? 散々探して、『マシな人は一人もいませんでした』ってオチが見え見えなのよ。……これもペシミスティック?」

「講義室の前の方を探せばいい」と僕は言った。「そういう連中は、少しはマシな連中だろう?」

「どうかしらね」と彼女は興味もなさそうに言った。「……あのね、真面目と馬鹿って共存出来るのよ。……知ってた?」

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