俺の⑤

「でもさ」


 逆説に、ひかりの眉尻が下がった。

 失敗したな。不穏な切り出しだっただろう。

 こういうときだけ、まともに機能するのが俺の数少ない利点だ。他の人間に対しては発揮することができないので、対ひかり用の能力である。


「今日だけ」

「……今日だけ?」


 ことりと首が傾げられた。

 ひかりはくるくると表情を変えて、俺の話についてこようと躍起になっている。こんなにも誠実で愛らしい姿を見られるのは、俺の特権だろう。


「特別ってことで」

「……、チカ?」


 ひかりが固唾を呑む。

 さすがにこちらも、生唾を呑んだ。心音があらぶっていく。

 乱暴な提案であることは分かっている。結局のところ、俺は利己的でしかないのだ。ひかりのことを考えているようで、自分のことでいっぱいいっぱいである。


「それ踏ん切りつくの?」

「……お前さ、それは言わない約束ってやつじゃないの」

「都合良いなぁ」

「悪いな。俺は結構わがままなんだよ」

「嘘つき」

「はぁ? 何の嘘だよ」

「チカは私のことしっかり考えてくれてるもん。わがままなのは、私ばっかり」

「そんなことないだろ。ひかりちゃんは、ちゃんと気を遣えるいい子ですよ」

「何それ」


 なんだか妙に照れくさくなってお道化た敬語になった俺に、ひかりはふっと力を抜いて笑う。

 どちらかと言えば美少女系のひかりから、ふにゃりと婉然とした空気が放たれるのが好きだった。食事中がそれを見る一番の機会だけれど、そうでない瞬間に見られるとひどく心が揺さぶられる。

 柔和さに癒されつつも、とくりと心の奥に熱が灯った。


「好きだよ、ひかり」

「……特別ってなんで今日なの?」

「焼肉とデザートは特別だろ?」


 両親からの仕送りがあると言えど、高校生の二人暮らし。贅沢にも限度がある。

その中でこのメニューが頻繁に食卓に並ぶものではないことは、ひかりも分かっているはずだ。


「理由はそこかぁ」

「ひかりにはぴったりだろ」

「それで、特別ってのはどういうことなんですか?」


 緊張した面持ちの改まった言葉遣いに、自制が間に合わずに噴き出した。

 汐田さんには謝っておこう。俺たちには、やっぱり似ているところも沢山あるよ。感情的になって全面否定する価値なんて、どこにもないよな。


「まぁ、気持ちの問題ってことで」


 ひかりは歴然と、不平そうになった。

 俺だって、そこまで深く考えて口にしている案ではない。それこそ、ひかりのことを入念に考え抜いていたけれど、ぶっつけで出てきたこもごもの単語は出たとこ勝負ばかりだ。

 人の基本構造は、そう簡単には変わらない。直情的な性格は、遺伝子に根差したものであるらしかった。


「いい加減だなぁ、チカは。家計のことには厳しいのに」

「当たり前だろ。お前に無限に食われたらあっという間に貯蓄が尽きる」

「私だってちゃんと考えるって!」

「どうだか」


 心情を公言して限度を分かち合ったことで、身も心も格段に楽になった。とりとめのない話の奥底に感じていた焦燥感が沸くこともない。これが兄妹のあり方から乖離していないだろうかという悲観も、少しは薄くなった。

 なれていないのなら、これから何十年でもかけて兄妹になればいいと、長期的なスパンでの感情が芽生えている。

 気が長過ぎると人は言うかもしれないが、人はそうして家族になるものだ。


「ところで、何の機嫌取りだったの?」


 言いながら、ひかりの熱はプリンへと移行していく。スプーンを手に取れば、とにかくだらしがなくなった。

 俺など埒外に放り出してやしないかと疑わしいが、設問だけはこちらを向いているのでまずまずとしておこう。


「なんつーか……まぁ、中途半端なこと言うことになりそうだなぁとか?」

「何で疑問形なの」

「正直買ったときには何言うか考えてなかった」

「思いつき?」


 プリン相手にとろりと蕩けていた瞳が、ぱっと見開かれて俺を貫く。行間だけで十分に感じ取れた。

 信じられない。

 俺自身信じられていないのだから、そのような視線に晒されるのも致し方がないというやつだ。


「悪かったよ。思いつきで変なこと言って」

「変だなんて思ってないけどさ」

「けど?」

「突っかかるなぁ。深い意味はないよ。て言うか」


 一拍置いて、ひかりはプリンを一口飲み込む。

 どういうタイミングだよ。いいけど。いいんだけど。


「嬉しかったし? 機嫌を取られる理由がないっていうか? むしろ、なんかいっぱい貰っちゃってご褒美、みたいな?」

「なんで疑問形だよ」


 口角の緩みも、からかう調子も何一つ繕えなかった。繕うつもりも、てんからなかった。


「う、うるさい」


 天使のような反論が返ってくるのだから、ありのままのほうが美味しい。


「可愛いよなぁ、お前」

「なんなの⁉ 急に」

「今日だけだって」

「……今日だけ?」

「いつだって想ってるけど?」

「なら、いい」


 何やら想像を超えた恥ずかしがり屋な上に、可愛いわがままも言えたらしい。

 参った。

 臍を固めた途端、新たに明らかになった可憐さに頭を抱えたくなる。こんなものは想定外だ。


「何?」


 実際に頭を抱えてしまった俺に、ひかりは訝しげな顔を寄越した。ほんのりと刷くように伸びたピンク色の残り香はまだ色濃く残っていて、怪訝さすらも華やかに魅せている。


「……お前さ、兄ちゃんをどうしたいの」

「チカでいて欲しいだけだけど」


 俺は手のひらを降ろして顔を覆い込んだ。

 クエスチョンマークだらけの空気は、いくら遮断しようとしても伝わってくる。個人的な気持ちの発露で振り回している自覚はあるが、リミッターは既に用をなしていなかった。

 土台、俺は気が長いほうじゃない。

 控えめに言ってもひかりが他人に触れたただその刹那で、瞬間的にボルテージが上がるやつだ。そんなやつに崇高な自重を求めたところで、達成できると思うほうがどうかしている。

 俺はぎしりとテーブルに右手をついて、前屈みに腰を上げた。

 一瞬の間を縫って、左手でひかりの前髪を掻き上げる。反発を抱かせない刹那にかけて、素早く額へ唇を寄せた。

 手早く離れてから、羞恥心に火がつく。

 俺は度し難いほどに単細胞なのだ。辛抱できない身体に導かれたしわ寄せが、目の前に転がっている。

 突発的にひかりの様子を探るのが難しくなって、顎をついて顔を背けてしまった。

 馬鹿か。

 恐らくそんな軽薄な評価では、こと足りないだろう。より一層ダイナミックに間抜けを表現する節を探しに旅立ったほうがいいかもしれない。それほどまでに、突拍子もなければ情緒もへったくれもない衝動だった。

 しばらくそうしていたが、ひかりからなんのリアクションも返ってこない。焦れったさに耐えられたのは、それほど長い時間ではなかったはずだ。

 もはや時間感覚はがばがばになっていて、体感がおかしい。心音の速さに釣られてとんでもない時間が過ぎ去っているような気もしたし、とても長い数秒に留まっているような気もした。

 ちろりと流した視線の先では、赤い景色が待っていた。ただそれだけであれば、羞恥が込み上げるだけですんだだろう。

 それだけでも腹いっぱいの代物なのに、ひかりはおまけを連れていた。恥辱に耐え難いとばかりに赤面をしているのに、陶然とした顔つきで額に手を押し当てている。前髪の下に入り込んでいる白さが、直接的でじんわりと心を躍らせた。

 感じ入っている。

 そう鼻を高くしても、罰は当たらないはずだ。


「……チカってこんな気障だった?」

「うるせぇな」


 敬語で凌ごうとしていた不動心は、粉々に砕け散っていた。乱雑になる言葉遣いを正す理性は、最早手元に残っていない。

 自分の中で反響した声は、予期せずつっけんどんで我ながら愕然とする。無様さに顎を乗せていた手のひらを頭へと移動させて、髪をくしゃりと掻き乱した。

 硬くて剛毛な毛先が指に絡む。ばさばさとした手触りが、先ほど触れた絹のような肌触りを担ぎ出してきた。より純然とひかりの柔和さが際立つのだから、たまったものではない。


「やっぱり今日のチカは特別変だね」

「そういう意味の特別じゃねぇっての」

「分かってます」


 茶化さないとやってられない。敬語混じりのフレーズが、ひかりだって平時から外れているのだと伝達してくる。

 心の底から相手に降参してしまって、変調をきたしているのは俺だけではない。お互いに壊れてしまっているから、兄妹ではない関係を別条なく仄めかしていられる。

 それを特別と呼んでいいものかは、考えどころだ。

 今日だけだ、という強弁は呪詛としては怠りのない効力を発揮していた。


「ほら、さっさと食えよ」

「だって食べ終わっちゃったら今日終わりみたいなもんじゃん」

「いいだろ。終わりだ、終わり」

「ひどい!」

「じゃ、これでおしまい」


 今度は思い切りテーブルに身体を預けて、ひかりの襟首を引っ掴んで引き寄せた。間近で光沢を帯びる紺碧の美しさを横目に、俺は乱暴に唇を寄せる。

 甘い。柔らかい。いい香りだ。

 万分の一秒でもたらされるキャパオーバーにも近い情報量を嚥下して、唇を離した。再度動けばすぐに密着する至近距離で、ばっちりと瞳が絡み合う。


「目、閉じろよ」

「だ、だって……不意打ち!」


 首筋から耳裏まで油断なく赤面したひかりは、いっそ可哀想なほどだった。わたわたと忙しなく彷徨う目の玉が、留まることを知らない。

 人ってここまで狼狽するんだな。

 何故だが俺は無性に冷静で、恍惚感に浸った心が豊かさを引き出していた。俺の引き出しにそんなものが隠されていたとは、押しなべて何が鍵になっているか分かったもんじゃない。

 そんな俺を、ひかりは恨めし気な顔で窺ってくる。上目遣いになっていることなんて、これっぽっちも認識がないのだろう。いっそ疎ましいほどに、羞恥に瞳が潤む特典つきだ。

 破壊力やばいな、こいつ。

 贔屓目なのは、昔から変わらない。確固としてそうであるのに、今や愛おしさは軽々と羽を生やして遥か天空へと舞い上がってしまいそうだった。

 それでは離れて行ってしまうので、困るのだけれど。


「も、もう一回」


 ひかりが唇を尖らせて、ぽそりと呟く。

 焦点を外す所業が、艶麗であるやら狡いやら。


「何度もしたら特別じゃねぇだろうが」

「だって……!」


 合わせたのは数秒だ。

 手荒い不意打ちは、何が起こったのか合点がいくだけで精一杯だっただろう。心ばかり、もったいなかったかと思わないでもない。けれど俺だって萎縮するし、恥じらいだってあるのだ。無敵でいられるはずもない。

 逃げようなんて魂胆があったわけじゃなかった。それでも尻込みに離れようとした俺の袖を、ひかりの手は逃がさない。

 真っ赤な顔がいじましくて、ああこいつのほうが数十倍も恥ずかしいのかとようやく思い当たった。

 やっぱり俺は、自分のことで手いっぱいだ。


「あのな」

「おかわり!」


 ぐわっと身体の中心から熱が立ち上った。血が沸騰しているかのように、熱い。

 食欲と並ぶのかよ。

 官能が理性を飛び越えて、神経にダイレクトアタックをかます。俺はひかりの首元に手のひらを這わせて、手加減せずに引き寄せていた。今度は、ぱたんと青が閉じられる。律儀なやつだ。

 先ほどよりもゆっくりと、唇を合わせる。

 濡れそぼったエロチックな唇。食事中あれほど健康的に艶めかしく動く唇に触れ、隙間からの甘い吐息を呑み込む。石鹸だけではないひかりの上品な香りに、じんと身体の芯が痺れた。

 長い接触に焦れたように挟まれた息継ぎに便乗して、かぷりと噛みつくように角度を変える。悦楽に溺れそうだ。ひかりの小さな喘ぎが、欲望の沸点を下げる。

 まったく、どこまでも甘かった。

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