俺の④
「あー、食べたー……お腹いっぱい」
麦茶を飲みながら、極楽とばかりに目を細めている。快感を隠さないひかりは無防備で、俺は苦々しくなってしまった。
「デザートあるけど」
「何⁉」
別腹は、本日も変わらずに有効らしい。この仕組みは腹の底から謎だらけだ。節制のような態度を取っていたあの期間は一体何だったのだろう。
「プリン。片付けたらな」
「えー……先にプリンでもいいんだよ?」
「ゆっくりしたいだろうが。手伝って」
「はーい」
絶対服従する義理など、これっぽっちもない。俺の意見など撥ね退けてしまっていいのに、ひかりは毛ほどの抵抗もなく片付けに手を貸した。どことなく献身的な部分が覗いて、むず痒くなってしまう。
二人がかりで取りかかれば、片付けなど一捻りだ。
プリン、プリンと鼻歌交じりに節をつけて、ひかりは冷蔵庫を漁っていた。
「焼きプリンだ! 美味しいやつ。どうしたの? チカ。太っ腹じゃん」
目を真ん丸にしながら、爛々と輝かせる。何とも器用な技だ。
デザートをつけることは貴重であるので、この文句が出てくるのもさもありなんであった。
「たまにはいいだろ」
「……何か疚しいことでも……?」
「どういう展開をした?」
「機嫌を取ろうとしてんのかと思って」
「一理ある」
「あるのかー」
賄賂だと吐露しても、ひかりは躊躇わずにプリンの蓋を開けている。それも楽観的な面構えだ。
「食うのかよ」
「機嫌取られようかと思って」
「そりゃ、どうも」
深く考えていないのだろう。局部的に、上手く間合いを読んだ対話が成立しているような錯覚に陥る。けれどそれは、幻想だ。
今、ひかりはプリンのことしか考えていない。頭の中はぷるんぷるんの役立たずのはずである。
「いっただきまーす」
元気の良い掛け声に追従して、プリンにスプーンを差し込んだ。
甘い芳醇とスプーン越しにでも感じるまろやかな感触が、それだけで美味しさを演出する。舌に乗せれば、とろりと纏わりついて甘さが運ばれてきた。
たまにはデザートも悪くない。
いわゆるメイン。食事のときは、ついついなのだろう。ひかりは早食いの気が出る。けれどもデザートとなれば、話は別だった。ゆっくりと満喫するように、口へと運んでいく。気品さえ漂って見えるような食べ方は、同じ食事中にもかかわらず空気感をがらりと変えた。
優雅で穏やか。
快活な姿も好きだが、こういった嗜みにも心を奪われる。外貌と併せるなら、今のほうが受ける感じは合致するだろう。
ひかりは慎ましやかにしていれば、俺でさえどこのお嬢様だよと突っ込みを入れたくなる雰囲気を醸し出す。一緒にいればそんな側面はちっとも携えていないと分かるのだけれど、見た目のプラスは隅に置けない。
「それで? なんなの?」
「お前こそ何考えてたの?」
「何が?」
「……泣いたんだろ」
ぎくりと手が止まる。
反応が身体に出るのは、分かりやすく好ましい。微笑ましい部分であった。今は便利とも呼べるだろう。
「ほ、本を読んだの」
「言い淀む理由がない」
「じゃあ、花粉! なんか目が痒くてね」
「今んとこアレルギーないだろ」
昨日の今日で突発的な発症がないとは言い切れないが、じゃあ、なんて代打であることが筒抜けな申し出を受けて承諾するには及ばない。
ひかりはしばらく黙秘でいなそうとしていたが、俺が引き下がらないことを察知したらしい。形勢が不利であると諦念すると、ぱちりと音を立ててスプーンを置いた。
「チカ、私ね、チカと一緒にいたいの」
真っ正直だ。
汐田さんのボールを受け止めておいて、ひかりの球を捕らえ損ねるほど俺は拙劣じゃない。
「俺だってそうだよ」
「でもね、そのためには妹じゃなきゃダメなの」
現実が強く見えている。
食べ物に関しては夢見がちだけれど、ひかりは現実主義者だ。周囲が良く見えているし、評価の目をきちんと受け止めてしまう。素直でいるから、荒波にそのまま揉まれてしまう。
守ってやらなきゃならないなんて、そんな勇者みたいなことは思っていない。けれど、そばにいてやりたいという志向は毅然としてある。すべての壁になってはあげられないけれど、何かがあれば隣で支えにはなってやりたい。
飯を食わせてやることくらいは、俺にだってできるのだ。
「でもね」
ひかりの声が、細かく震えていく。椅子の上に足が畳み込まれて、きゅうと小さくなった。行儀が悪いなんて指摘する頃合いではないだろう。
「兄ちゃんじゃ嫌なの」
膝の間に落された顔は見えない。揺らぐ声帯に、泣いているのではないかと怯む。
「……チカはチカだもん」
兄より先に、異性の友人がある。
そうあれば、想い人になることだって、なんの不思議もないだろう。
「ひかりはひかりだよ。他の何者でもない。どんなに思い込もうとしたって、お前は妹ってだけの存在には成り得ない」
「うん」
「ひかり、俺はさ、お前のことが好きなんだ」
ばっと勢いづいた顔が持ち上がる。ぽろりと落ちた一滴にやはり泣いていたかと、苦み走った。
「わ、私も……」
「でも、お前の言う通りだ。俺たちが一緒にいるためには、兄妹でいなくちゃならないよな」
「うん」
ひかりは意思表明を省略したりしなかった。もっともらしく、朴直に俺の話に耳を傾けてくれる。
「そうしてお前にいつか彼氏ができるのを黙って見守ってるしかないかないんだ。でも多分、素直に祝ってやるなんて到底無理だ。新田相手でさえ、俺は許せない。胸糞悪い」
こくんと、ひかりは頷く。
一転して、俺の一方的な語りの滞りにならないように、着実に間を読む。こういった感性が噛み合うことも、心地良い一点だった。
長年の付き合いがそうさせるのだとしても、それでも俺は元来兼ね備えていたものもあるはずだと思っている。
「心狭いよなぁ」
「私もね、汐ちゃんの脚見てるの、嫌だったの」
「……妬いた?」
「……うん。私が勝ってるところなんて胸しかないなって」
「なんでだよ。昨日今日会った人よりお前のいいところのほうが沢山あるっての」
「でも、チカが他の誰かに目移りするだけでも嫌なんだもん」
自暴自棄に、ぶっちゃける。箍が外れた人間ってのは、本当に重圧から解き放たれるらしい。自分が理性を失くして殴りかかっているときには、分からないものだ。第三視点になって、初めて実感するものがある。
「分かってるよ、ダメだって。ちゃんと兄妹でいないと」
「……そうだな」
嫉妬に歓喜しているなんて、絶対に口にしてはならないのだろう。兄妹の尺度を越えたそれを肯定してしまったら、取り返しがつかなくなってしまう。
今ならまだ引き返せるのかと問われれば、怪しいものだけれど。
「ひかり」
「なぁに?」
「俺さ、もう一生独身でもいいかなって思ってるよ」
「え?」
目玉が飛び出そうなほど瞳を見開いたひかりに、笑いが零れた。
散々取っ散らかるほどに頭を捻っていたのに、土俵際の俺はどこまでも途方もないほどに無計画だ。
本番に強いってのは、都合良く解釈し過ぎだろう。でも、今ほど自分が能天気であることに感謝したことはない。
「そうしてさ、妹と一緒に過ごすんだ」
じわじわと空気に溶け込むようにゆっくりと、ひかりの頬が紅潮していく。なんだかひどい満腹感に襲われた。
「良くない?」
「……プロポーズ?」
「なんでだよ。実家から出るつもりないって話だろ? 悲しい宣言だと思うけど」
「馬鹿じゃないの?」
「今更何言ってんだよ」
馬鹿論争は先日話がついたじゃないかと、笑ってやる。既成事実として俺の成績は良くないのだから、真実味はあるだろう。
「虚しいだけじゃない?」
「俺はひかりが笑って飯食ってればそれでいいよ」
「……私も。チカの料理をずーっと食べてないなぁ」
「俺はここにいるよ。兄ちゃんだしな」
「……うん」
目を細めて笑う表情に、ぎゅうと心が締め付けられる。
たった今、兄妹としてそばにいることを選択したことを瞬発的に後悔しそうであった。けれども、それは自分が許さない。
というよりも、今はそれしか手段がない。
だったら、俺は兄妹であることを選ぶのだ。一線を越えて離れ離れになるよりも、隣にいることのほうがずっと大切で仕方がないのだから。
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