俺の③

 帰宅すると部屋に明かりがついていなかった。いつもからすると、もうとっくに帰宅していてもいい時間である。


「ひかり?」


 差し込む夕暮れの紅が和らいで、薄らと空が灰色に変色していく時間帯。部屋は仄暗く、ひかりはテーブルに顔を突っ伏していた。

 身体とテーブルの間には、ハクマイのビーズクッションが潰れている。息はしている。大丈夫だ。

 虚脱感に襲われて、危うく買い物袋を落としかける。慌てて立て直して、冷蔵庫に仕舞った。


「ひかり、帰ったぞ」


 試しにかけてみた声は、知れず囁き声になってしまった。声かけする気はあるが、起こすつもりはあまりない。

 疲れているなら、と思う。

 幽かに差し込む余光に、ブロンドが異色な光を反射している。熱に浮かされるように近付いた。まじまじと凝視して、衝動的に手が伸びる。

 ――泣いたのか。

 頬に残った涙の跡が、そこだけ変に乾いていた。

 指で辿ると違和感を覚えたのか、ひかりは小さく身動ぎをする。俺は、そっと腕を引いた。

 泣かせたのか。

 あまりにも、自惚れが過ぎるかもしれない。けれどこの涙は、自分が関与していると無条件に信じてしまった。


「んー、チカ?」

「おう。飯にするぞ」

「今日はなぁに?」


 もぞもぞと顔が持ち上がる。乱れた金髪が頬や肩口にだらりと垂れて、それを直す手つきが色っぽい。


「焼肉」


 色気が雲散霧消した。ぱぁっと広がった向日葵のような大輪の笑顔は、純真であどけない子どもみたいなという言葉が大いに似合っていた。

 泣いたことなんて、まるで分からない。

 気が付けて良かったのか。悪かったのか。一人でしょい込まれてしまわないためには良かったのだろう、と自分に言い聞かせる。


「机の上片付けて、ホットプレート出してくれ」

「はーい」


 着替えをすませて、野菜を切る間にひかりはすっぱりと準備を終えたようだ。ちょこまかと俺の周りを動き回ってくる。

 つくづく子どもみたいだ。


「チカ、何かしようか?」

「前のめり過ぎだろ。いいから皿と飲み物持って座ってろ」

「えー」

「もう、準備できるって」


 反抗的に唇を尖らせながらも、言いつけをしっかり守っている。好きなものや滅多に食卓に並ばないものに関しては、お手伝いが精力的だ。

 物思いに耽っていても、脳内のお米率はそれほど変わらないらしい。


「あっためておいたよ!」


 意気揚々。これ以上適切な表現もあるまい。不安になりそうなほど、きびきびとしていた。


「早く!」


 そう言って、傍らに立つ俺のシャツの裾を引く。とはいえ、これが別段例外的というわけでもない。ひかりは興奮するとこのくらい朝飯前だ。

 食事関連のこととなればなおのこと、日頃であれば着眼しなくてもいいような事柄だった。


「分かったから、落ち着け!」


 諌めて座れば、隣からはわくわくと身体を揺らす振動が伝わってきた。花や音符を乱舞させられるのではなかろうかというほどに、喜色満面である。

 既に準備万端のプレートの上に、じゅっと音を立てて生肉を乗せた。セット価格の肉なんてたかが知れているかもしれないが、庶民にしてみれば十分な代物だ。

 部屋中に広がる肉汁の香しさが、口の中の唾液を増やす。適度な枚数を乗せて、隣に野菜関係を並べた。

 どちらかと言えば肉食のひかりは放っておくと肉ばかりになるので、目を凝らさなければならない。こうして野菜を摂取させるのも、俺の役目だ。骨の髄から専属シェフ扱いされているのだから、栄養管理と称してバランス良く食べさせることにも努めていた。


「もういいんじゃないか」

「いただきます」


 破裂音は、手が痛くないのかと心配するほどに大きかった。

 ひかりはこれ以上ないほどに頬をだらしなく緩めて、肉を頬張る。俺が奪取するとは思っていないだろうが、入れ込みが負けん気のようなものへと昇華されていた。出し抜こうとしなくても、二人には十二分の量を用意してある。

 肉をせっせと焼きながら、合間に口に押し込む。じゅわっと解ける肉汁が口の中に広がって、旨味が弾けた。セットだからって、軽視してはならない味だ。

 美味い。


「チカ、もっと食べなよ。私もやる」


 言うが早いか、手元のトレイは手早く引き取られてしまった。食べる専門になりがちなひかりにしては、気が回る。

 普通なら菜箸を使うのだろうが、俺もひかりもそんなところに拘ったりはしなかった。面倒くささにかまけて、直箸になるのはしょっちゅうだ。

 牛肉とバラ肉は増補してかさましを図ったが、他はセットのみだった。盛り合わせの中でも多めのものを選んだが、内容量にはバラつきがある。数枚しかない豚トロをひかりの瞳が、じーっと捉えていた。手元がお留守になっている。やはり慣れない作業を任せるものではないのかもしれない。


「ひかり、食えよ。落ち着かない」

「でもチカ好きでしょ」

「いいから」

「やだ」

「ひかり」

「いーや」


 何を闘争的になっているのか分かりやしない。食にまつわるエトセトラにおいて、ひかりは独自の原理に沿って動いている。そしてそれは、一般論からは少々足を踏み外していた。

 思想を読むなんて真似は段違いに困難を極めるので、俺は早々に白旗を上げる。


「我慢されるほうが嫌なんだよ。お前が食べてるの見てるのも好きだし」


 ぱっと瞳が見開かれる。ひかりは腰が据わらないかのように身体を揺らし、顔を逸らした。


「チカ、どうしたの?」

「何が」

「……変じゃん」

「お前もな」


 ひかりは分が悪くなると、だんまりを決め込む。こうなったら手こずるのは目に見えているのだけれど、今は目の前に釣果抜群の餌があるのだ。使わない手はない。

さっと肉を摘みあげて、ひかりの取り皿へぶち込んだ。


「とにかく食え」

「……うん」


 顎に皺を寄せるほどの渋面を晒していたが、根負けして首肯した。そもそもここまでされて、ひかりが我慢などできるはずもない。

 ひかりの食い気について、俺は本人よりも仔細に把握しているつもりだ。


「おかわり」


 それが合図であるように、そこからはむしゃむしゃと機械的なほどに一定の間隔で肉は飲み込まれていった。元より余る心配など粉微塵もしていなかったが、もくろみ通りプレートの上どころかテーブルの上はものの見事に焼け野原となった。

 この間ご飯のおかわりは四杯を超えていて、食欲は絶好調と呼んで遜色ないようだ。

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