俺の⑥
一晩開けて、はいそうですか、と簡単なスイッチのオンオフで兄妹になれるわけもない。昨晩のコンタクトを身体はまだ覚えている。日跨ぎの邂逅に、気分が張りつめていた。
いつもより早く目覚めた俺は、朝方でもすっきりと顔を見せるようになった朝日に迎え入れられる。
夏まではもうすぐだ。
炊飯器を開けて、炊き立ての空気を吸い込む。もわっと温もりのある湯気に纏わりつかれながら、しゃもじを突っ込むのが俺の毎朝の日課だった。
それから昨晩下準備したもの、買っておいた食材を兼ね合わせて弁当作りを開始する。
激しい物音を立てて目覚ましよりも先にひかりを起こしてしまっては忍びないけれど、存外そんなこともなく日々は過ぎていた。
ひかりは一度寝るとぐっすり熟睡だ。寝言や寝相の激しいところがあるが、眠りの深さは随一である。おかげさまで、とんとんと刻む包丁の音も気にしなくて良いのは助かっていた。
そうして朝の陽気が部屋中に充満した頃、携帯アラームが電子音を高鳴らせる。ひかりは布団と仲良しコンビを決めて、なかなか出てこない。今日も今日とて、一度目では起きない魂胆のようだ。
「ひかり、飯できるぞ」
「……ご飯……」
魔法の言葉も、いくらか効力に欠けた。それでも起床を促すには事足りたようで、ごそごそと起き上がってくるノイズが続いている。
片手間にリビングを覗けば、派手な寝癖のついた頭がひょこひょこと動いているのが視界の端をチラついた。
「さっさと顔洗って、着替えてこい」
「ふぁい」
欠伸混じりに去り行く姿は気だるげで、まるで普段通り。俺ばかりが肩肘張って馬鹿みたいだ。むやみに浮足立っていたのも、こちらだけか。
内心愚痴交じりに落とし、弁当を袋に仕舞って朝食をテーブルに運ぶ。時間が揃っているのにバラバラに食事をする生活はしていないので、椅子に座って脱衣所からの帰りを待った。
しかし、待てど暮らせど戻ってこない。時計の長針が十周半。流石に遅い。はて? と振り返って、仰天した。
「な……に、してんだよ」
足音など、まるきりしていなかった。
後ろに佇んでいたひかりは、何を考えているのか分からない顔でこちらを凝視している。大体において俺はひかりの考えていることは分かっていないので、つまりはいつも通りだ。
だが、食事を前にしてそれほど冷然とした顔は稀有である。
「おはよう」
「? おはよう」
「……兄ちゃん」
「何だよ?」
ここのところ耳にしていなかった呼称だ。少しだけぎこちなく聞こえたのは、俺の気のせいかもしれない。
「お腹空いた」
へらっと気の抜けた笑いを張り付けたひかりに、ああそうか。と合点がいく。
多分、着替えの最中に覚醒した。そして昨日のことを思い出したのだろう。今日から俺たちは兄妹と新たにやり直す。これは俺が勝手に設定した線引きだったのに、優秀な妹は勘付いたようだ。
眉を八の字にして笑うひかりがいつものように合唱する。
「いただきます!」
「……召し上がれ」
たった一日のイレギュラー。夢物語だなんて片付けるつもりは断じてない。それでもやってくるのは相応に同じ毎日だ。
さりげなく平穏で、なんの変哲もない。俺とひかりの日常である。兄妹であって、兄妹でない。兄妹になろうとする二人の日常だ。
ずっと刺さっていた心の棘が、姿をくらましていた。執着していた兄妹の枠組みが、以前よりもずっと自由に感じる。
どうかこの感情が独りよがりでないことを願いたいものだ。
「チカ、時間いいの?」
「なんで? いつも通りだろ」
「罰則。朝の挨拶運動がどうとか言ってなかった?」
「あ」
瞬時に時計を見上げて、俺はどたばたと鞄を引っ掴んで弁当を突っ込んだ。
「悪い。後片付け頼む。先行くな」
今すぐ出ないと間に合わない。取捨選択は素早くて、俺は言い捨てるが早いか、さっさと玄関先へと急いだ。
スニーカーを引っ掛ける手つきが、まどろっこしい。
「チカ」
「どうした?」
首だけで振り返ると、想像するよりもずっとそばに屈みこまれていて目を丸くした。
やっぱり、今日のひかりはほんの少し変だ。
懐疑心を抱いていると、いきなりネクタイを引き抜かれた。奇天烈にもほどがある。呆然としている間に、結び直されてますます混乱に突き落とされた。
「なに……」
「うん。似合ってる」
「はぁ?」
「兄ちゃん、行ってらっしゃい」
「……ひかり?」
「ちょっとだけおかわり」
「いやいや」
可愛く言われても、易々と納得ができない。
そもそもこの場合のおかわりってなんだ。
「ほら、遅刻するよ!」
ぐいぐいと背中を押されて、追い出されそうになる。力任せに身体を揺らされて、視界の端に違和感が掠めた。
「お前、これ……」
「……ダメ?」
既視感に襲われる。
ダメだろう。ダメだけど。
「もういいよ。遅刻するし」
「するし?」
「……取り違えたってことで、いつも通りだろ」
男女で――恋人同士で、ネクタイを取り換えるのが流行っている。そんなことを言ったのは新田だった。何もそうなりたいという意思ではないのだろう。それでも、ひかりの小さな独占欲だ。
この愛おしさを跳ね飛ばせる胆力が俺にあるわけもなかった。
灯った衒いのない笑顔を見れば、なおのことだ。
やっぱり好きだなと思うけれど、そのことに狼狽したりざわついたり、自分へ言い訳を並べ立てることはなくなった。
心は軽く、前を向ける。
「行ってくる」
「行ってらっしゃい」
ドアを開ければ、眩しい日差しが玄関先まで降り注いだ。
履き潰したスニーカーで、一歩を踏み出す。
「気を付けて」
「おう」
ひかりの声に送り出されて、俺の一日は始まる。
鞄につけたハクマイを揺らして、ネクタイを取り違えて登校する。
きっとこれから先も、こんな風に同じ毎日が続くのだ。
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