私の⑥

「新田さんは、兄ちゃんだなんて信じてないみたいだった」

「兄ちゃんより新田のこと信じるのか?」

「ううん」


 ぱさぱさと、髪の毛が揺れる音がする。誰に見咎められておらずとも、ご丁寧に首を振っているのだろう。そんなところが、微笑ましくていじらしい。


「でも、私はチカの気持ち聞いてないから分かんない」

「それは……」


 お茶を濁すのも限界だろ、と俯瞰の自分が冷酷に告げる。

 兄妹であることに妄執し、男女であることに直面する。第三者の出現で、これほどまでに均衡を崩すのだ。黙諾を続けるには、抉り出された感情は一筋縄ではいかないものだった。

 そして、恐らくお互いに――正体を知り過ぎていた。誰よりも一番身近にいた友人は、出会った頃から大切だったのだから。


「俺は……俺はお前が大事だよ」

「私だって大事だよ。家族だもん」

「……お前、そりゃねぇだろ!」


 まだどこかで打開策を模索しながら、腹を据えかけたらこれだ。

 日和りやがったな。直感的にそう思って視線を上げると、俯いた長髪から覗く耳が真っ赤に染まっていてドキリとする。

 耳の裏から側頭部にかけて、釣られたようにかっと熱くなった。


「大事だよ、ひかり」


 観念したら、すとんと落ちた。

 NGと思しきワードを口に出せない惰弱な精神には目を瞑るとして、音色の違いは自分でもはっきりと分かった。

 俺はこんなに深い声を、今まで誰にも使ったことがない。


「そ、れはっ」


 漂うムードが特殊であることなんて、ひかりにはバレていることだろう。

 兄妹として接してきた期間より、異性の友として過ごしてきた時間のほうがよっぽど長いのだ。佳親としての呼応のほうが、お前はきっと俺の感情を富に享受できる。

 ちろりと髪の切れ間から窺った水色としかと絡み合って、その目元にさぁっと桃色が広がった。

 透き通る陶器のような地肌に、白桃色は見事に映える。

 ああ、なんて――

 するりと指が伸びた。つるんとした柔肌を確かめるように、頬に触れる。


「……っ」


 言葉にならない驚嘆に部屋の空気が震えて、ひかりはびくりと身体を窄めた。知らぬ間にひかりが手にしていたグラスが滑り落ちて、急いで手を伸ばしたが間に合わない。


「ご、ごめん!」

「いや……」

「チカが驚かすから!」

「お前が聞いたんだろうが。責任転嫁すんなよ!」

「ごめん、今拭く」

「ちょっと待て」


 制止など、聞いてもいなかった。ひかりは間髪を入れずに手元にあった布巾を引き寄せて、牛乳を被ったズボンへと触れる。容赦なく拭かれていくのを見下ろして、俺は耳朶から首筋まで急速に茹で上がった。

 いや、待て待て待て。


「ひか、り。いいから……」

「え?」


 きょとんと見上げられて、痛恨の心地がする。瞳を覆って天井を仰いだ。


「え? 何??」


 けろっと普段通りになってしまったひかりは、俺が無駄な妄想に憑りつかれているなどと、考えもしないのだろう。

 いや、元々そっち方面はからっきしだ。


「だから、大丈夫」

「沁みになるじゃん」

「いや……」


 ひかりは性懲りもなく、俺の足元へ覆い被さるように後始末をする。

 この子は何も間違っていない。悪いのは俺だろう。

 ソファに座った俺の足元は、きっぱりと股だ。そこに広がった白い液体を拭い取っている女の子というのは、褒められたもんじゃない。のみならず、ホットドッグの件を思い出す体たらくで、俺は自分の卑しさに頭を痛めた。

 何が妹だよ。

 自覚がないと、声高に唱えられるわけだ。これだけの邪念を抱く相手に選んでおいて、何もないわけがないし、ただの妹のわけもない。

 あさましいと言われても、こんな場面になって初めて、げんなりするほど自分の思慕を呑み込めるのだ。


「ひかり」


 肩を掴んで、動作を止める。

 身体を屈ませたまま上目にこちらを見上げたひかりからは、慎重に視線を逸らした。直視してしまったら、後戻りできない予感がひしひしとしている。


「着替えるから、いいよ」

「あ、そっか。うん」


 まともな代案が出てきたことに、つくづくほっとした。

 しかし、ひかりはなかなか体勢を変えない。そのまま注がれる視線に根負けして、ちろりとそちらを盗み見たのは失敗だった。

 どうしてそうしたのか。ほんの数秒前まで、やってはならないことだとコントロールが効いていたというのに。


「チカ」

「……なんだよ」


 ひかりは、ぐっと唇を噛みしめた。力加減が不安になる。

 肩を掴んでいた腕を移動させて、顎を掴んだ。すっと親指で唇を辿ると、弛緩したようで安心する。


「ち、チカ……」


 戸惑う声色に反応して、視線を上げた。よく熟れた食べごろのリンゴのような顔に、ごくりと喉が鳴る。


「だから、なんだって」

「そういうの、恥ずかしいから、やめて……」

「は?」

「触るの」

「……怖くない?」

「チカが怖いわけないでしょ」

「馬鹿だろ」


 声に出ていた。

 心の底から、思う。

 数日前にも同じような主張をひかりはしていたけれど、今はあのときとはまるで状況が違う。

 分かっているのだろうか。俺たちはこんな空気に身を投じたことなんて、一度だってない。

 分かっているんだろうな。だってお前はさも当然のように、兄ちゃんなんて呼ばないんだから。

 こつんと、胸元に頭のてっぺんが押し付けられる。ぐりぐりと擦られて、堪らずに頭を抱き込んだ。ひかりは体重を預けて、脱力する。その重さと体温が心地良い。

 どうして、初めからこうしていなかったのだろうか。

 そんな益体もない理想を描いてしまうほどに、ぴったりと満たされていく。頭頂部へ、そっと唇を落とした。気が付かれなくたって構わない儀式だ。けれどひかりは感覚的に把握でもしているかのように、俺のシャツを強づくで掴むリアクションを寄越してくれた。

 抱き込んでいた金糸に指を通す。しなやかで透明度の高いそれは、するりと抵抗なく毛先にまで滑った。そうっとひと房を持ち上げて、唇を寄せる。

 今度は寸分も気が付かれなくて、がっかりすると同時に肩の荷が下りた。そのまま何度も髪を撫で、ひかりの肩へと腕を下ろす。

 力を込めて押せば、俺の胸板へ落ちていた顔が持ち上がった。碧い瞳が海のように揺らめいていて、石にされたかのごとく離れ難くなる。

 いつまでもこうしていられたらいいのに。


「チカ」


 うんと返せば、チカと呼び返される。もどかしさが存分に浸透した単一ではない感情が混濁した俺の名を、ひかりが呼んでくれるのが好きだ。

 本当は甘えるときだって、兄ちゃんなんて馴染んでもいない呼称を使って欲しくなんかない。

 俺は兄でなくたって、お前のわがままには敵わないのだから。

 両頬を挟み込んで、じっくりと瞳を合わせる。なんだか胸がいっぱいで泣きそうだったけれど、口角は緩やかに上がった。


「ひかり」


 馬鹿の一つ覚えみたいに、相手の名前を呼んでばかりいた。それ以上を求めてはいけないと、本能が拒むかのように、名前だけを繰り返した。

 愛おしい。


「着替えてくるな」


 そういって身体を離して、抜け出す。肩透かしを食らった表情を後ろにして、俺は迷わずに距離を取った。

 最愛だからこそ、越えられない境界線がある。どんなに願ってやまなくても、戸籍上俺たちは縛られるのだ。

 この世の中に、マイノリティな人たちはいるだろう。戸籍に縛られなくても恋愛は自由だと気高い心を持つのは、大切なことだ。

 けれども、俺は耐えられない。

 自分がどんな批判を受けようと、白い眼を向けられようと、それは全く取り合わない。素行悪く過ごした時点でそんなものには慣れているし、頓着したこともなかった。

 けれど、俺のせいでひかりを針の筵に座らせることにはとても耐えられそうになかった。どんなに望んだとしても、今できる限りがある。


「ひかり、俺のタイプはお前以外ないよ」


 ぎりぎりのラインを踏んで、置き土産にした。泣きそうなひかりの顔が、ゆるりと緩んだのを目視する。


「シャワーも浴びてくるから、好きなの食ってろ」


 平常通りに指示を飛ばして、俺は空気の払拭のための策を弄する。

 引かれる後ろ髪の未練を手放す以外の方法を、俺は知らなかった。

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