私の⑤

 はむ、と手ずから噛み付かれて目を剥く。

 ひかりに他意はないだろう。食べ差しに口をつけるのは、ありふれた行為だった。けれども、だ。今は心情的にも食品的にもよろしくない。

 垂れてくる髪をそっと耳にかける動作を絡めて、一際良くなかった。

 ぷるんと濡れた赤い唇が、押し付けられる。体勢によって、白いうなじが眼前に晒されていた。んー、と美味しさを示すかのような呻きが、甘美さを内包しているようで殊更にいただけない。

 食欲と性欲が似通ったものだとか、世俗的な着想を得たらもう厭らしい妄想しかできなくなった。がちりと固まってしまった自分の馬鹿正直な態度が恨めしい。

 緊張感が競り上がってきて、鼓動を速めた。

 決して軽率な妄想の報いではないと、自己暗示をかける。喉がからからに渇いてきて、迂闊にも飲み込んだ生唾が激しく喉を鳴らした。


「ダメだった?」


 しょぼくれた顔に疑問を投げられて、脳がショートする。何を聞かれているのか、回路が正常に繋がってくれない。


「ホットドッグ美味しい。ウィンナーバッチリだし、やっぱり全部食べたかったんでしょ?」


 そこまで言われて、どうにかこうにか嚥下できた。不埒な欲求と食欲を誤認してくれたらしい。ほっとするやら、やるせないやら。

 ああ。とその場しのぎに呟いた声が、やけに掠れていて舌打ちが零れそうになる。自意識の膨張が激しい。


「ごめん。こっち、いる?」

「何個か作ってるからいいよ。お前が好きなの好きに食べな」

「……ありがとう」


 しおらしくはにかまれて、調子が狂う。

 そこに到達して、はたと奇妙さが生まれた。自分のことに気を取られている場合ではないのではないか。

 もっと元気じゃないだろうか。こんなときのひかりは、もっと溌剌としていないだろうか?

 機嫌の詳細を窺うことは、得意じゃない。けれど食事中のひかりのことならば、お墨付きをもらってもいいはずである。何かを特別留意しなくても裏がないだけなのだが、これだけは譲れなかった。


「……どうした?」


 咀嚼していた動きが、目を瞑りたくなるほど露骨に停止した。


「なんで?」

 か細い声量に、後悔に見舞われる。

 迂遠な言い回しが苦手で、愚かな真似をするのは俺の短所だ。短所など上げだしたらキリがないのだが、今発揮すべき力ではなかった。


「いや、元気ないかなって。もっと、うるさいだろ」

「そんなことないもん! 私だって、毎食はしゃいだりしないよ」

「でも、今日みたいなときははしゃくだろうが」

 躱されているのか、それとも純粋に対応されているのか分からない。ひかりは頬を膨らませて、睨んでくる。

 大まかな機嫌の上下は分かっても、仔細な変化を悟れるほど俺は器用じゃない。忌まわしさは、目を逸らしたいほどだった。

 じれったさと、さしで口したくない気持ちが鬩ぎ合う。行き場を失ってコーヒーを流し込んだ。


「……なんで?」

「なんでって……」


 異変を感じ取ってはならないのかと、憮然として黒い液体から顔を上げる。

 隣で下を向いた顔は表情が窺えずに、周章した。


「なんで今日はそんなに気が回るの?」


 持ち上げられた瞳には薄く膜が張っていて、喉が締まった。

 分析した根拠なんてない。閃いたのだって、ただの偶然だ。たまたまパン作りに励む日常を外れた事象があったから、ひかりの微かな異常を感知できた。運が味方についているのかいないのか分かったもんじゃない。

 こんな顔をさせると分かっていたら、もう少し慎重になっても良かった。


「どうしたんだよ」

「……新田さんに」


 そういって、ひかりは視線を逃がす。

 かっと腹の底に熱が灯ったことは、改ざんのしようもなかった。先の見えない焦燥感に支配される。


「新田がどうしたんだ?」


 びくりと肩を竦められて、自分が切羽詰まっていることを痛感する。急き立てるような真似をして、一体どうするつもりだ。

 ひかりの異変は、仄かな割り切れなさを覚えるほどでしかない。体調不良や大々的な事件などが、目に見えて発生しているわけではないのだ。

 心情を知りたいのは、ただの自己満足ではないのだろうか。

 問い詰めたいわけじゃない。すべてを俺に話す義務など、粉微塵だってない。日和見主義な俺はいっそ骨太に気後れしているに、前言を撤回しようとする常識的な俺はどこにも存在しなかった。

 時計の秒針が、ちくたくと大きな音を立てる。


「告白された」

「はぁ⁉」


 あたふたと口元を抑え込んで、すまんと口の中でもごもごと転がす。憤懣やるかたないものが噴出したが、あまりの失礼さには腰が引けた。ひかりへの体面だけで、へどもどする。

 ひかりはソファの上に足を引き上げて、体育座りになった。膝の上に顎を乗せて、むんっと唇を尖らせる。

 困ったときの癖だ。

 俺はそうしていれば安寧が得られるとでも思い込んでいるかのように、またぞろコーヒーを流し込んで一息を吐いた。

 あの日新田がデートなんて無駄口を叩いていたのは、徹底しておふざけに過ぎないと信じていた。どこかで少しは勘繰っていたかもしれないが、そんなものはミジンコ一匹分ぐらいだ。

 甘かったか。


「……そんで?」


 聞いた手前、ここで引くのも逆に奇妙な心地になる。ひかりが喋りを放棄してしまったら、俺が踏み込むほかない。

 建前を建築するのは一人前で、速攻だった。本音は、俺自身が顛末を突き止めなければ居ても立っても居られなかっただけである。

 ひかりは愚図るように、身体を上下に揺らして時間を稼いだ。話したくないのかもしれない。

 思い当たっておいて尚、俺はやっぱり一連をなかったことにすることはできなかった。こればっかりは手を引けないと、観念している。


「断ったよ」

「なんで?」


 心底ほっとして力が抜けたくせに、質問は言下よりもに神速だった。自身のことながら動揺具合が常軌を逸していて、渋面になる。

 カップを片手に膝を立てて、額を預けた。出し切った呼吸音が甚だしい響きを奏でて、自己嫌悪に塞ぎ込みそうだ。


「別に……好きじゃなかったから」

「好みだっただろ」

「だからそれはそれじゃん?」

「……性格だって悪いやつじゃないだろ」


 何を言っているんだろうなと思う。

 ひかりが新田に心を許すことを容認できないくせに、大人のふりをしてアシストでもするような言葉を投げている。


「そりゃ、かっこいいとは思ってるけど」

「じゃあ、別に付き合ったって」

「兄ちゃんは、私が新田さんと付き合って欲しいの?」


 もぞもぞと動き続けていた身動ぎを止めて、ひかりが真っ直ぐに俺を見据える。それはあまりにも瞬間的ですぐに視線は離れていったけれど、その一瞬で全身を貫かれたような気分になった。

 常識人ぶった兄の沈静のようなものを、片っ端からむしられてしまう。開いた唇からは意味のある音など、一音たりとも出てこなかった。


「……殴り合ってたかもしれないって言ってたよ」

「そんなのは所詮、かもしれないだろ」

「でも、良く思ってないみたいだって」

「そりゃあ、まぁ……新田には良くない噂もあるし? 兄としては、お前が変なのに捕まるなんてのをみすみす見逃すわけにもいかないかなぁって。母さんから預かってるわけだし⁉」


 苦しい弁解とヒートアップだ。ひかりにだってそんなものは筒抜けだろう。

 我慢ならずに、カップをテーブルに預けて顔を覆った。取り繕う余裕など、遥か彼方に追いやる。すべての力を注ぎこんで、クールダウンを試みた。

 隣からの微音を拾っても、顔を上げることはできなかった。何度呼吸を整えても、頭の芯が痺れたように考えが取っ散らかったままだ。


「……チカ」


 返事をしなかったのは、ほんの数秒。

 けれどもひかりは、焦れるようにすぐにチカと反復した。こんなときに態良く使われる兄ちゃん呼びでないことが、やけに胸に刻み込まれる。

 なんだよ、と発した音の覇気のなさと言ったら、痛々しくてならない。似つかわしくないか細さに、醜悪さが駆け巡った。

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