私の④

         **************



 作り過ぎた自覚は大いにあった。

 テーブルの上に山盛りになったメニューに、顔を覆う。息抜きのつもりで挑んだら、面白くなってしまった。時間がないと作れないものなだけに、今を逃したら機会もないだろうと気合が入った結果だ。

 一息を吐いてコーヒーを入れたところで、がちゃりと同居人が帰宅する物音が入り込んでくる。


「おかえりー」

「……ただいま」


 やけに静まり返っている。

 もう嗅覚はマヒしかけているが、部屋中には料理臭が充満しているはずだ。それをひかりが嗅ぎつけないなんてことが、あるわけがなかった。普段なら、意欲満々に飛び込んできたっておかしくない。

 リビングに顔を出したひかりは、どことなく肩が落ちているように見える。だがリビングの事態を見るや否や、そんなものを打ち消すほどにぽかんと大口を開けた。


「どうしたの? それ」

「作ったんだよ」

「手作り? 買ったんじゃなくて? 主婦なの?」

「腕のいい主夫だろ?」


 発想力が良く似ている。ここまでくるとブランジェなの? が既に正しいのではと思わんでもないが、日々を謳歌する優雅な主婦がやりそうなことではある。

 テーブルの上には、手作りのパンが山積みになっていた。

 生地を捏ねる作業は一心不乱になれて、気が紛れたのだ。下手な考えを捨てるのに、好都合だった。おかげで調子に乗ってしまったわけだけれども。


「それにしても作り過ぎじゃない?」


 言いながら、鼻をひくひくと動かしている。すっかり、夢中のようだ。


「食うだろ?」

「……食べるけど」


 無制限にかと言えば限界はあるだろうが、大量に作ってしまってもひかりが食べてくれるという安心感は計り知れない。ついつい分量が多めになってしまうのは、手癖になりつつあった。

 それにしても定番に加えて、総菜パンにも手を出し、菓子パンまで作ったのは紛れもなく裾野を広げ過ぎていた。

 夕食にしても、多過ぎる。明日の弁当に持たせてもいいかもしれない。


「着替えて来いよ。牛乳でいい?」

「ココアは?」

「ストック切れ」

「じゃあ、牛乳でいいや」


 ひかりは付き合いでならコーヒーも飲むが、日頃は糖分に偏る。気分次第なのかもしれないが、進んで飲む飲料ではないようだった。

 服を見繕って脱衣所に消えていく後ろ姿を、それとなく見送る。同じ空間で着替えをするほどに、互いに無神経ではない。

 パン作りで払拭していたここのところの憂慮がまたぞろ、にょっきっと顔を出す。悩み消滅の持続効果は、作っている間にしかなかったようだ。日常的な風景になると、濃い影は余計に烈々と立ち上ってくる。

 女の子だ。

 ふっと吐き出した酸素は、やけに鋭さを兼ね備えていた。何かを断ち切ろうとむきになっているような懸命さが滲んだことに、嫌気がさす。

 先ほど淹れたコーヒーと牛乳を持って、リビングのソファに腰を下ろした。普段はキッチン横の一角にあるテーブルセットで夕食を摂るのだが、今日は変則的でもいいだろう。

 片手で食べられる気軽さが、パンのいい点だ。作るには思わぬ手間もかかったが、それはそれである。

 すぐに戻ってきたひかりは、薄着だった。

 日々、暑さに拍車がかかっている。夏日が混じり合うことも、徐々に常態化してくる季節だ。ラフな格好をしたいのも分かるが、部屋着というのは著しく芳しくない。

 何十年と、夏場のひかりを見てきた。プールで遊んだことだってある。それでも自宅の弛緩具合はわけもなく隙だらけで、どうにもやきもきした。

 ぼたついたサマーニットに、ショートパンツ。トップスが太腿までを覆い隠し、ショートパンツをちゃんと穿いているのか視認が難しい。少しでも不具合が生じれば、パンツが見えるんじゃないかとハラハラしてしまう。

 残念ながら、俺は兄ではあるが男子高校生でもあるのだ。ましてや、ただの友人だった女の子である。いくら妹になったといったって、それまで性的な目で見ていなかったとしたって、どぎまぎぐらいはする。

 新田の分析は間違っていない。

 こうして季節を超えていくのは、初めてのことだ。初体験に免疫がなくて何が悪い。誰に宛てるでもない弁明で、自己を保つ。


「美味しそう」


 広くもないソファに並んだひかりは、でれっと相好を崩した。帰宅時のどことなく沈んでいた余韻は、とうに散逸されている。終わったことをあえて突くには、腰が引けた。

 何より食事に水を差すのは、本意ではない。ひかりが舞い上がっていることが、何よりも安んじる状態だ。


「いただきます」


 ぱんと完璧な破裂音を立てて合わされた手は、すぐさま離れて宙を彷徨う。ふらふらとした手つきが、逡巡を顕著に見せつけた。眉間に皺が寄っていて、真剣に吟味しているのが分かる。


「あ!」


 横からひょいっと奪うと、情けない悲鳴が上がった。


「早く取らないからだろ」

「うー、チカのアホ」

「アホで結構」


 うーうー、とひかりは呻き声を上げる。恨み節なのか、悩んでいるだけなのかは判断のしどころだ。

 俺は我関せずで、ホットドッグを口に運んだ。ウィンナーに、ケチャップとマスタード。特殊なことは何もしていないシンプルなものだが、これはなかなかだ。

 何より、焼きたてでふわりとしたパンが美味い。焼いて正解だ。

 ひかりは、バターロールを手に取っている。実のところはクロワッサンにしたかったのだが、そこまでの技術は伴わなかった。さくりとした食感を出すのは、難しいらしい。

 次々に挑戦欲が沸き上がったことには、もう笑うしかなかった。

 最初は自分が食べるために、今となっては半分ひかりのために熟している仕事も同じだ。けれどやっぱり高揚感も充足感もあり、並びに歓喜する人間がいると欲も出る。


「ふわっふわー。香りもいいし、今日はこの部屋最高」

「お前もうなんか食べ物アロマ的なもの探してくればいいんじゃないの?」

「そんなのあんの?」

「知らないよ」

「適当だなぁ」

「でもあったらピッタリだろ、ひかりに」

「そんなことないよ。困る」

「……お腹空いて?」

「うん!」


 そんなところで力強く頷かれても、こちらが困る。

 潜在的には、お気楽ではいられていない。多岐に渡る素因が身体中に纏わりついてくる気配は、常にあった。忌避感や危機感、多様な感情は完全に喪失してはいない。けれども寛いだ座談は心を和ませて、穏当さが表立つのだ。俺はとことんいい加減な男なのかもしれない。

 ひかりはぱくぱくとバターロールを胃に収めながら、視線で次を探している。それがちらちらとこちらに流れてきて、言わんとすることを健在させた。

 折り悪くウィンナーは残り物しかなかったために、ホットドッグは一つしか作っていない。二人で食べることを失念していたわけではないが、種類を作ることに熱意が向いてしまっていた。

 残りが少なくなっていく度に、視線の熱っぽさが上がっていく。

 どんなシチュエーションで鬼気迫っているのか。また、口頭で訴えかけてこないところが巧妙である。

 いじらしいなんて可愛げのある感想は出てこないけれど。


「ほら」


 問題意識があったって、物事はそう容易には改善しない。俺がひかりに甘いのも、そのひとつであった。

 残りは半分にも満たないが、差し出せばひかりの瞳は宝玉のように艶めいた。目に光が灯るなんてよく聞く言い回しだが、それを青い瞳で実感すると迫力に圧倒される。主には、まぁいいか。と諦めの境地として。

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