私の③

「ケーキとか良かったの?」


 運ばれてきたコーヒーカップを傾けながら尋ねられて、苦笑を零した。

 新田さんと交流を持つのは、たったの二回目だ。それだけで、良く食べる子だと深い認識が定着している。ひた隠しにしたいわけではないけれど、残念さは拭えなかった。

 平気です、とカップを傾ける。ブラックで流し込んだコーヒーは、喉に苦みを残していった。いつもよりも濃いブラックが、じんわりと身体に沁み込んでいく。

 今の私にはお似合いだ。


「さっきは驚かせてごめんね」

「いや、こっちこそ……叩いてごめんなさい」

「いいよ。びっくりしただろ? この間のことがあったばっかりだしね。俺が気をつけなきゃいけなかった」

「そんな大層なことは」

「……一応、大層なことにしておいてもいいと思うけどね」


 大袈裟なものとして、決め打ちもしない。けれど、当人にとって大問題であってもそれを笑い飛ばすこともしない。人情味に慰められる。

 新田さんはどこまでも、完璧のラベルが貼られたような人だ。引く手数多だろうな、とは他人事のようだった。


「穂村――佳親はどうしてる?」


 あの場で大事にはならなかった。だが相手方の高校生が告げ口をしたようで、チカは一週間の謹慎処分を食らっている。情状酌量の余地があるとして、暴行事件には発展しなかった。

 相手方が正当防衛説を乱暴に推し進めていたら、どうなっていたかは分かららない。私と汐ちゃん、新田さんの証言によって、チカの処分は軽いものですんだのだ。


「けろっとしてますよ」

「まぁ、一週間休めるんだしな」


 処分は立派な処分だ。当然、反省をすべき時間ではある。課題も出ているし、消化しなければならないものもあるだろう。けれど、正味のところ、休みは休みだ。

 中学時代にはサボり魔をやっていただけに、チカは力を抜くことが上手い。適度に時間を潰して、のんべんだらりと一日を過ごしている。いっそ羨ましくなるくらい、悠々自適な生活だ。

 それでも早起きをして朝食も弁当も準備してくれているのには、頭が上がらないけれど。

 報告が終わると、会話はすんと立ち消えてしまった。私と新田さんの接点はチカしかなくて、特に目新しい出来事が発生しないカフェではトークに窮する。

 遊園地ではさして感じさせなかった息苦しさが、じわりと立ち上ってきた。それはこちら側からの身勝手な良心の呵責が、猛威を振るっているだけのかもしれない。

 それを裏付けるかのように、眼前の新田さんは涼しい顔をしている。


「どうかした?」

「いえ?」


 きょとんとしてしまう。

 なんでもないような態度で調子を尋ねられて、理解が追いつかなかった。新田さんは穏やかなすまし顔でいて、真意が読めない。どこか現実味のない作り物めいた部分を感じるのは、こういったところなのかもしれない。

 完璧過ぎて、同い年にも見えなかった。


「なんか、元気ないかな? って。穿ち過ぎかな?」

「そんなことないと思うけど」

「そう?」


 思わず、唇に力が入る。きゅっと引き結んでしまったそれが、自動的な意思表示になってしまった。

 新田さんは、お見通しとでもいうように追加で再度首を傾げる。見破られているなんて思うのは、ただの主観でしかないのだろうけれど。


「……少しだけ」


 少しだけ? なんだと言うのだろうか。

 言い渋ったわけではなかった。何を言おうとしているのか、見失ってしまったのだ。迷子になって、語尾が掻き消える。


「チカが?」

「男の子なんだなって」


 言い慣れた呼称が、胸の奥を擽った。促すようにぶつけられ、流れるように紡いだ答えに声を呑む。

 新田さんはまるでつるりとした顔で、極めてまったりと店内を見渡しながらカップを傾けていた。

 近くのテーブルから、こそこそと囁き声が上がっている。さすがの優美さだ。


「今までなんだと思ってたの?」

「……兄ちゃんは兄ちゃんだよ」

「兄ちゃんでも男でしょ?」


 一等気にした様子のない物言いは、ぐさりと胸に刺さった。そこに法外な区別を見出して、執着しているのが良く分かる。

 チカは揺らぐことのない男子で、だから兄なのだ。

 けれど二つが一緒に存在すると、私はひどく困惑する。整理をつけてこなかったことが、じわじわと思慮を蝕んでいた。

 兄妹として慣れたものだと勘違いしていたけれど、それはただ人と生活することに慣れただけだ。男女として接触したとき、その皮は一瞬で剥がされて柔らかい部分が剥き出しになってしまう。

 チカに触れられたことは、他の何を差し置いた一大事になっていた。チカが逆上した顔の獰猛さがあまりにも野性的て、追想するだけで胸が熱くなる。


「……穂村は馬鹿だって思ってたけど、ひかりちゃん……穂村さんも同じなんだね」

「はい?」

「言ったんだよ。お前のそれは妹に対するものかよ、って」


 まじまじと新田さんを見つめる。ポーカーフェイスのままなんて爆弾を落としているのだろうか、この人は。


「当たり前だって態度するわりには、凄い憤然とするのなあいつ。もう少しで殴り合いの喧嘩だったかもね」

「え? あ、はぁ⁉」


 跳ね上げた語尾で店内の視線を掻っ攫って、慌てて口元を押さえ込んだ。物理的に止めなければ、頓珍漢な奇問が次から次へと溢れてきそうだった。

 新田さんはここにきて初めて、表情を曇らせてみせる。

 チカは、短気だ。けれどだからと言って、誰彼構わず暴力を振るうような真似はしない。そもそも専守防衛で、やられて初めて動くのがチカだった。

 ただ腕っぷしが強くて気が荒い故に、事実無根の誤報が飛び交って因縁を吹っ掛けられてばかりいただけだ。今でははっきりと避けられるようになって、めっきり大人しくなっている。

 だから、チカが友人とわざわざ拳を交えようとするなどというのは前例がなく、天変地異とも呼べる自主性であった。


「な、なんで、そんな」

「俺が手を出していいかって聞いたからかな?」

「は?」


 今度は吐息が大幅を占める感嘆になった。

 脳が受信を拒否するかのように、言葉の本質がちっとも読み取れない。まるで異国の言語のようだ。


「俺がひかりちゃんに手を出してもいいかって」

「なんで……?」


 丁寧な説明を受けてなお、バカの一つ覚えみたいな繰り返しに新田さんは微笑する。


「ひかりちゃん可愛いから」


 はぁ。と間抜けな受け答えをして、我に返る。経験値がないことがあけすけな反応に、遅ればせながら恥ずかしさが迸った。

 視線をテーブルへと逃がして黙る。先ほどまで適度に外されていた新田さんの視線が、じっくりと降り注いできた。


「そりゃあ、真実の愛なんて手に入れば万々歳だけどさ? いいじゃん。気軽に始めるものがあったって」


 なんとなくの始まりを知らないわけじゃない。過去にそんなこともあったけれど、なんとなくはなんとなくのままに自然消滅した。

 新田さんの軽い告白紛いの論に、私は答えを下せない。何より、新田さんは何か決定的なものを寄越したわけではない。

 なんてものは、純情ぶった理論だろうか。


「チカは……チカは、なんて?」


 どうにか続けなくちゃと焦るばかりの唇から零れたのは、あまりにも聞き苦しい投げかけだ。

 バカじゃないのか。

 少しは色気のある駆け引きの最中に、兄の話を持ち出すなんて場違いにもほどがある。ここに流れた源にはチカがいるけれど、それでも口にしていいことと悪いことがあるだろう。


「……思うところがあるみたいだね。兄として?」


 疑問形の追加条項が白々しい。少なくとも新田さんは、疑心しているのが分かる。

 それがチカの本心からの発言であったのかは、てんで見当がつかなかった。昨日今日会った人の考察ができて、長年付き合いのある兄の狙いが分からない。分かったところで、どうしていいかも分からないけれど。

 そうですか。なんて少しも可愛げのない受け答えをして、カップの縁に意味もなく指を這わせる。

 チカの指はもっと節くれだって、ごつごつしていた。違う生物なのだと嫌でも思い知ってしまう。私にどんなに可愛げがなくたって、細部はどうしたって女子だ。

 そうあることを望む望まないの次元でものを考えたことはなかったけれど、今の私には毒でしかない。


「俺じゃダメかな?」


 新田さんは、残酷だ。まるで誰かと比較して、選び取らなければならないような疑問符を付ける。

 穿ちすぎ。自意識が肥大しすぎ。分かっていても、言外に包められたニュアンスを深読みしてしまう。

 私は無意味に弄っていたカップを持ち上げて、急速に渇いていく喉を潤わせた。喉元を過ぎていく苦味が、先ほどよりも鮮明になったのは気のせいにしておきたい。

 考え過ぎていた。

 逃げ出したいほどに、考え過ぎていた。

 おぼろげに始まるものに、縋っても差し支えないのではないか?

 直面している兄妹としての命題は、簡単に打開されるものではない。だったらネックになっている男女という懸念事項に、なんらかの解決策を宛がうのも手だ。

 新田さんは、タイプに違いない。そして、その紳士さもまざまざと見せつけられている。

 何を躊躇うことがあるのだろうか。

 迷うことがどこかにあるだろうか。

 そうだ。まるで当たり前のように二択を差し出されているけれど、選択肢なんて初めからあってないようなものである。

 だって、だってどうなったとしたって――


 チカは兄ちゃんだ。

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