私の②
気もそぞろに漫然と過ぎ去った一日は、瞬く間だった。
下校の歩幅が、少しばかり戸惑う。帰りたくないなんて、かつて一度も思ったことがなかった。会いたくないなんて、小学生の頃から数えたって記憶にない。
次はいつ会えるのだろう、と無邪気に心を弾ませていた私はなんと愚かだったのだろう。
あの頃の私は、チカと毎日でも一緒に居たかった。少しでも一緒に居たかった。未来でこんな窮地に立たされているなんて知ったら、幼き日の自分はどんな反応をするだろうか。
同居生活を純に喜べる核は、この数日で融解し始めている。純粋無垢に喜んだであろう自分はもういない。
バカでいられたら良かった。いや、バカだったからこそ今になってお鉢が回ってきたのかもしれない。
じりじりと注ぐ日差しが、着実に気温を上げてきた。梅雨明けはもうすぐそこまで迫っている。季節は少しずつ、初夏の薫りが混じり始めていた。
日光が照り返る手すりの金属独特の発色を見ると、赤みがかった毛色を彷彿させられる。光の角度によって、ただの茶髪にもひどい赤茶色にも変化する髪色が気に入っていた。
金髪だった過去は、若気の至りだとチカは言う。言うほどにときは過ぎていないのに、ひと足先に大人の階段を上ったような言い草だ。
ついでのように、お前のブロンド見てたら俺のなんて安っぽい。と苦笑いで付け足された。次いで気負うでもなく追加された、綺麗だよな。という安い感想で私が舞い上がったことをチカは知らないだろう。
どうしたって目立つ地毛が、愛おしくなった。梳くように撫でていくチカの指使いが、無性に気恥ずかしくなった。
険のある目つきが丸くほぐれるのを発見して、甘えたくなった。我ながら安上がりだ。たったそれだけのことに、清々しいほど浮つく。
空を見上げると決まって目を眇めるチカの振る舞いが目について尋ねれば、お前の色だよ。と言われて度を失った。くさいな、といつになく歯切れが悪い調子を見せたチカは、陽光よりもよっぽど色鮮やかで眩しかった。
ただの通学路を行くだけで、幻想がちらつく。チカの姿は、ばかばかしいほど日常に根付いているようだ。
通い慣れた通学路。駅のロータリーには、北校と南校の制服が入り乱れる。ここから少し歩いたスーパーがチカの行きつけで、私がチカと落ち合う確率が最も高い場所だ。
帰りしな、ビニール袋をぶら下げて並ぶこともある。お互い部活をしていないので、帰宅時間に大差はなかった。
学校が違ったのは、まったくの偶然。というと少し語弊があるが、狙いや企てがあってのことではなかった。たまたま行きたかった高校がバラバラだっただけに過ぎない。
俺の学力じゃ南が限度、とチカは笑っていた。北校と南校の偏差値はほとんど同じだけれど、チカの学力が低空飛行だったのは事実なので口を噤んでおいた。
中学時代に流れるように素行が悪くなったチカは、その人間性に沿うようにサボり癖が発症していた。
別段、何があったわけでもないのだろう。父親とチカの間に、確執があったようにも見えなかった。
ただなんとなく、そうなった。そういうことは、ままある。すべてに因果を求めてなんていられない。私が食いしん坊になったのだって、ただなんとなくだ。
ただし、不良生徒さはさておくとして、サボり癖については元々でもあるようだった。料理だけはまともに熟すものの、他の家事においては若干ものぐさだ。
他のことを一切合切私に任せているのは、家事の分担のつもりなのかもしれない。それにしても、放っておくと洗濯物は放置されるのが常だった。
そんな粗雑さが積み重なって、袋に突っ込んだいかがわしい本が見つかるなんて失態を犯す。間抜けである。
私だって、潔癖ではない。チカは健全な男子高校生なのだから、そんなこともあろうと目を瞑れば良かった。それが目に触れてしまったのは紙袋を雑に止めているからで、半ば事故だ。
胸を強調した煽情的なキャッチコピーが飛び込んできて、表紙を見て大急ぎで袋に戻した。
中身も詳細も関知していないけれど、チカの性癖は予想外に易々と明るみに出た。まごつきながらも土壇場で白状したチカは、馬鹿正直だ。
自分の胸囲について、例外的な感覚を抱いたことはない。成長した分をありのままに受け入れて、感慨なんてものはなかった。どちらかといえば、少し目障りだと思っていたくらいだ。
重くて、痛い。それだけの物体である。
けれど、チカの好みに合致するなら――と思ってしまったことに愕然とした。あのときはすぐに立て直してふざけたけれど、今になって暗雲が立ち込めている。もう梅雨は終わりだというのに。
実兄の性的好みなど知りたくなかったと、顔を顰めるべきところなのだろうか。血の繋がりのある異性には、本能的に近付かないようにできているというのは都市伝説か何かだったか。真実だったか。薄らぼんやりと手にした話の一部は、不正確だ。
けれどこの感情が、兄妹として正常ではないことは疑いの余地がなかった。自意識過剰だと言われても、こればかりは覆らない。
恋人みたいだと言った新田さんの声が反芻されて、一層雁字搦めになった。なんて不適当なことを、というのはあまりにも都合のいい八つ当たりだ。新田さんに悪意がなかったことなど、分かりきっている。
私たち二人には、どうあっても隔たりがある。
どうあがいても日本人のチカと、紛うことなきハーフの私を兄妹だと見抜ける人間はいなかった。
純粋に驚いた新田さんの反応は然るべきもので、家庭の事情を根掘り葉掘り聞かない礼儀の良さは抜かりない。
「……りちゃ……、ひかりちゃん!」
引かれた手首に、ぞわりと肌が粟立った。力の限り引き抜いて払ったのは、咄嗟だ。
振り向いた先には、美しい瞳を見開くくだんの人物が立っていた。
「ごめん。驚かせたね。危ないよ」
手繰り寄せた手首を手放した新田さんは、軽い降参ポーズで苦笑する。見苦しさがなくて、作為もない。
抜き打ちに取り乱したとはいえ、無神経な対応だったと申し訳がなくなる。
大したことのないナンパの後遺症が地味に続いているのは、チカがあんなにも慈しむような手つきで上書きしたからだ。他人の指が恐怖で仕方がなくなるほど、あの手つきは思いやりに溢れた優しいものだった。
「大丈夫?」
「は、はい」
覗き込まれて、はっとする。
散々熟慮していたものだから、どうにも言葉が詰まった。新田さんへ理不尽な感情を当てつけていたことも、自分勝手な罪悪感に変換される。それこそ新田さんには無関係なことだ。
「今帰り?」
言いながら、新田さんはゆったりと歩みを再開させた。通行人の妨げにならない配慮であろう。スマートさが素敵で、好みでしょう? と小首を傾げた汐ちゃんの顔が蘇る。
正直なところ、新田さんの外見は好みで言えばドンピシャだ。百二十点といってもいいだろう。私にはいっそ、もったいない。
そして、新田さんを別世界の住人のようにも感じていた。決定的に大きく食い違うわけじゃない。けれど造形美として好ましいのと、性格的要素すべてを鑑みて好きなのはまた別物だ。
からかうようにチカを責めたけれど、チカの理屈はよく分かる。
「新田さんも帰りですか?」
「今日は部活もなかったしね。ひかりちゃん、この後予定ある?」
「ないけど……」
「カフェでもどう?」
「あ、はい」
歓迎してしまったのは、ほとんど勢いだった。断る手段が見つからないと肯定しまうのは、昔からの悪い癖だ。チカにフォローしてもらったことも、数えきれない。
「良かった」
そうやって綺麗な顔に微笑まれてしまったら、それこそ退路が残されているわけもない。そして、憎悪があるわけでもなかった。
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