四品目
私の①
穂村佳親。
物心ついた頃から、何かにつけてそばにいた人だった。お兄ちゃんみたいな人だと思っていた。そうしたら、正規の兄になった。
穂村ひかり。
穂村姓になってから、たったの数ヶ月。まだ少し慣れない呼称とは別に、妹でいることにひどい齟齬はなかった。
――ないつもりでいた。
ないはずだった。
けれどチカは、私のたった一人の仲の良い男子であったことも事実だ。同年代の男の子。いつだって私の前に立って、私を守ってくれて、けれどやんちゃもやって喧嘩もした。
積み上げてきたのは、友人としての関係性だ。中学時代には両親たちの心積もりも分かり始めていたけれど、やっぱり友人は友人だ。
おにいちゃん『みたい』は、ぶれることなくそのままだった。
穂村姓になって、一緒に生活をするようになって、気負わなくても良いと分かったのはしばらく経ってからである。その間チカは自然体でいてくれて、その甘美さに降参する形で、妹の立場に囚われるのをやめた。
普通でいいのだと。いつも通りでいいじゃん、と開き直ったのだ。
そうしたら精神面の引っかかりは気にならなくなり、兄ちゃんと呼ぶことに照れることも少なくなった。呼び方なんて、なんでもいいよといったのはチカだ。
四の五の言っても、チカは私よりも格段泰然と私たちのことを見つめている。
私はチカに追従すれば、それで間違いはないと頼もしく思えた。道標がいる。一人じゃない。ただ、信じていればいい。
昔から一貫して、チカのことは信頼していて、だから今まで通りでいい。けれど、それが少しずつ綻び始めたのは、割とすぐのことだ。
「ひかりちゃん、ご飯行こう」
「うん」
私はいつもお弁当だ。それを持って、中庭に出る。
チカは私の食い意地に、一切引いたりしなかった。お腹が空いたと呟けば、文句を垂れながらも蔑ろにはしない。
毎食を作るのは、チカの仕事だ。嫌な顔ひとつせず、私のリクエストにも応えてくれる。全部が叶えられないことは、私だって弁えていた。わがままを言ってもいい気心の知れた距離感を当てにしているといっていいだろう。チカの包容力に、胡坐をかいているかもしれない。
「チカさんのお弁当本当に美味しそうだよね」
「食べる?」
「いいよ。ひかりちゃん、お腹空いちゃうでしょ」
「ちょっとだけじゃ変わんないもん」
汐ちゃんは、ふふふと大人びた笑いを零しながら首を左右に振り続ける。いらないという身振りを受けて、ぱくりと卵焼きを味わった。
チカの味付けが、初めからこうだったのかは定かではない。私好みの甘い卵焼きがふんわりと口の中にほどけていく。
美味しい。絶品だ。
チカの料理は、他の何にも勝る。ミシュランのレストランなんて入ったこともないけれど、きっとそれをも上回ると盲信している。兄ちゃんの料理が最高だと言えば、それはただのブラコンですむ話なんだろう。
ぱくぱくと止まらない箸を動かしながら、考える。
ブラコンで片せるものなのだろうか、と。
何故ならチカが私に料理を振る舞ってくれたのは、戸籍上兄妹となってからが初めてというわけではないからだ。そして私がチカの手料理を極上だと評して止まないのも、兄妹となってからのことではない。
兄ちゃんの手料理だから好きなのではない。チカの料理だから好きなのだ。
同じだろう。それはイコールで結ばれるものだろう。言葉遊びでしかない。チカが最初から私の血の繋がった兄であれば、何も嘆くことはないのだ。
近頃はもう、どうしていいのか分からなくなってしまった。
「ひかりちゃん、どうしたの? 今日は遅くない?」
私は早食いの気がある。そして大食いだ。
「どうもしないよ、大丈夫」
汐ちゃんが私の熱量のなさを風変りに思うほどには、食欲旺盛だ。
それでも私だって、少しは気にしている。女の子らしくなくて、食べっぷりに引かれることも多々あった。自分でも、可愛い動作からは程遠いと百も承知している。
汐ちゃんのように、小さなお弁当にぎゅっと詰まったそれなりの分量を食べているのが、可愛い。私のお弁当は大きめで、たっぷりと中身が詰まっている。日によっては、売店で総菜パンを買い足すこともあった。
気にしているのだ。太るかもしれないし。
チカは、たくさん食べている私が好きだと言った。可愛いと言った。
そう言ったのは、兄妹になるよりも前の話だ。昔から変わらないチカだけれど、兄妹になってから、これだけは言わなくなったように思う。
深い思惑なんて昔からなかっただろうに、今更のように遠ざけるから、以前にも増して気を揉んでしまう。新田さんに取り沙汰されて、動転してしまうほどには重大な憂慮だった。
兄ちゃん、私たちちゃんと兄妹でいられてるのかな?
「そういえば、新田さんと連絡取ってるの?」
「ううん。全然」
「進展なし?」
「進展も何もそういうわけじゃ……」
「でも、ひかりちゃんの好きなタイプでしょ?」
「それはそうだけど。見た目が好みだからって、好きになるってものでもないでしょ?」
どこかで聞いた文言だ。チカの顔がちらつく。同じような言い分をさせたのは、自分だった。
汐ちゃんは、チカが意識する傾向のある女の子だろう。私とは正反対。チカが本気で好きになりそうな相手だ。私が勝つための切り札なんて、いつもは名だけの胸くらいなものだった。
――勝とうだなんて、よくもまあいけしゃあしゃあと言える。私は、汐ちゃんに負けたくないし、チカを奪われたくないらしい。
奪うも何も、チカが誰かと付き合ったって私は妹の地位を追われるわけじゃないのに。チカにとっての妹は、私だけに委ねられた唯一無二の籍なのに。
それだけじゃ足りないとでもいうのだろうか。
欲張りなのは、食い気だけではないのだろうか? 幾ら食べても満ち足りることがないように、私は貪欲で品がない。
新田さんとのやりとりで可愛いと同意したチカの顔と、キレて乱闘騒ぎに飛び込んだ顔が、ぐるぐるとメリーゴーラウンドのように回っている。
罪悪感と後ろめたさのミックス。そして、微々たる優越感に、反吐が出そうだった。
自分のことで我を忘れるチカの感情に、手放しにときめいた。けれどそれを認めることは、何か重大なミスを犯すような気がしてできずにいる。
苦しい。気持ちが悪い。これがただの食べ過ぎなら冗談めかして笑えるのに、現実は悲痛だ。
考えれば考えるほど、隘路だった。底なし沼に足を取られて、抜け出せなくなる。歯止めなく熟考すべきでないと、正解は導き出せているのに実行に移せない。
どんなに黒板に集中しても、チカの存在は消えたりはしなかった。多種多様な仕草や表情が、スライドショーで展覧されていく。
重症だ。
授業内容はさらりと鼓膜を通り抜けて、空気に溶け込んでいった。これならチカの寝息の方が、遥かに耳朶を叩くというものだ。
チカは普段口荒いことも多いし、ガラも悪い。薄く整えられた眉毛も、吊り気味の三白眼も、耳に残る複数個のピアスホールも、赤茶色に染まった髪の毛も。道端で行き会う路傍の人だったら、深入りしたくない部類のルックスだ。
これでもピアスは一組しかしなくなったし、髪も脱色した派手な金髪からすれば角が取れたのだけれど。だがそれにしたって、表立ってお近付きにはなりたくないカテゴリーの人種だった。
なまじ顔のパーツが整っているために佇まいをより強烈にしているのだが、本人はとことん無頓着なようだ。見栄えは良いが、人相は悪い。仏頂面なおかげで無愛想に見えるし、普通にしていても怒り顔である。誤解を与えたことは、ごまんとあるだろう。
私とは似ても似つかないビジュアル。その顔が弛緩しきって油断するのを満喫できるのは、きっと私しかいない。
チカの飾り気のない寝顔は、いたずらに人懐っこくてびっくりする。すぅすぅと零れる息遣いが、そこはかとなく心許なくなるほどに静かだった。
日頃は鍛えている身体に倣うように、しっかりとした逞しさを兼ね備えているので儚さなんてただの錯覚なのだけれど。
十キロの鉄アレイを片手に鍋を掻き回している姿を見たときは、正直引いた。人のことを大食いだの食い意地が張っているなどと評するが、だったらチカは筋肉バカの称号を献上してやるべきだ。
そして筋肉バカは、良く人の足を見ている。いやらしさはないけれど、危なっかしさはあるのでやめて欲しかった。
汐ちゃんの足元を見下ろす視線が蘇る。このムカつきは、胃の調子が悪いわけじゃない。
駄目だ。また同じところに帰結している。いたちごっこで、進展がない。埒があかない。とりとめがない。
どんな思考を尽くしても、ゴールで笑っているのはチカだった。
なんだか疲れてしまって、一刻も早く解放されたくなる。そのくせ想い出に心が洗われて、懐かしさに胸が暖かくなったりもしているのだ。
なんたる矛盾。
女々しさが嫌になる。こういうのは、大女が抱く感情じゃないはずだ。私にはことごとく似合わない。
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