波紋は止められますか?⑥

 あざを作った顔と身体では、アトラクションを楽しむ気分でもない。気が削がれたのは俺のせいだけでもないが、会がお開きになるのも無理からぬところであった。

 駅前に辿り着いたときの徒労感といったらない。新田と汐田さんと別れたところで、どっと疲れが押し寄せてきて、溜息が零れ落ちた。


「平気?」

「……平気」


 芸のないオウム返しに、ひかりは眉を下げる。

 怪我はどうということはないが、精神衛生は平時を逸脱している。ひかりもそれは分かっているのだろう。ぱったりと口を噤んで、並び歩いた。

 これが赤の他人なら、気疲れに息が詰まるところなんだろう。ひかりだって、元は赤の他人だけれど。

 まったく。虚勢なんて張れたもんじゃない。

 激昂に至った光景が、瞼の裏でちかちかと明滅する。ぐつぐつと煮込まれた憤怒は、様々な感情を刺激してどろどろとした穢れた塊へと変貌し始めているかのようだ。

 ありとあらゆる色味は混ざり過ぎて、どす黒く淀んでいる。こんなもの、ぶちまけることなどとてもできそうになかった。

 かっちりと引き結んだ唇の縫い目から零れ落ちんとする一片を飲み下して、胃の腑に収めながら家路を急ぐ。


「ただいま」


 呟くように言ったのはひかりで、俺の開いた唇からはただただ漫然と空気が転がり落ちただけだった。そのままリビングに座り込んでしまった俺の隣に、すとんとひかりが並ぶ。

 自然な動作だ。それがひどく心を和ませながらも、どこか忙しなさも抱かせた。


「チカ」


 首を小さく傾げるだけで、返事になる。力を入れる必要なんてない。


「無茶してない?」

「あれくらい前に比べれば序の口だ」

「じゃ、なんでそんなにダメージ食らってんの?」


 ことりと傾げられた首に連動して、肩口にかかった髪の毛がさらりと落ちる。きらりときらめく流れを追って、見届けた腕が瞳にこびりついた。神聖な領域に土足で上がり込まれた映像がフラッシュバックする。

 そこに触れていいのは――


「ひかり」


 伸ばしたのは、反射だった。するりと腕へ手のひらを這わせて、たちまち胸が潰れる。がちりと竦んだのは俺のほうで、ひかりはきょとりと瞬きをしていた。

 ただ突然の行動に瞠目した。

 それ以外の感情が見えないほど、普遍的で、従来通り。


「……あ」


 ちょっとだけ、察しが悪い。

 そうして俺の行為を感じ取ったひかりの瞳から、ぽとりと涙が流れた。ぼろぼろと続いていくそれに、肝を冷やす。


「悪い! ごめん。悪かった」


 青くなりながら手を離して、ホールドアップをする。まさか泣くとまで思わなかった。なんとも迂闊に手を伸ばしてしまったものだ。

 何をやっている。


「ちがっ……違うのっ」


 必死に涙を拭う激しい息遣いの中で否定されて、はいそうですかとはいかない。

 本当に、何をやっているんだろう。

 ひかりのことばかり考えて、これでもかというほど離れないと放言しておいて、肝心なところで何ひとつ理想的な対応ができない。兄貴だと言っておいて、こんなところで泣かすのだ。

 ――兄だと胸を張ることさえもできないようなことを考えておいて。


「チカ、チカは、全然違う……気持ち悪くなんて、ないよ。ごめん。びっくりさせて、ごめん」

「ひかり、大丈夫か」


 ぐすぐすと鼻を啜るような、こんな号泣を見るのはいつぶりだろう。

 こんな風に泣かせたのは、いつ以来だろう。

 昔は泣き虫で、些細な言い合いでもすぐに泣いていた。俺は口の悪さで追いつめて、いつだって親父に怒られたのだ。


「ごめんなさい」


 謝ってばかりの姿が痛々しい。こんなに小さくなんてなかったはずだ、ひかりは。


「いいよ。怖かったな」


 こくりと首は縦に振られる。

 ただのナンパだ。

 例え普段男子との交流がなかったとしても、パニックなるほどのことかと言われたら、俺には良く分からない。

 けれどあれが、態良く断れば離れていくような輩でなかったことは断言できた。殴られた腹部がキリキリと主張する。

 咄嗟の乱闘で身体を狙えるやつは、それなりに喧嘩慣れしてるやつだ。慣れないやつは突然殴りかかられて、ちゃんとダメージを与えられる箇所へ反撃を繰り出すなんて真似ができるもんじゃない。

 ことりと、ひかりの頭が肩口に落ちる。

 心配だなんて、無駄口を叩くべきではないのだろう。けれど心情を消すことはできなかった。

 兄だ。

 分かっているし、事実だ。

 それでも、男だった。一番近くにいて、ひかりの魅力なんて他の誰にも負けないほどに熟知している。見知らぬ誰かに手を出されれば、ドスを利かせて牙を剥き出すどころか拳を繰り出すみっともない男だ。

 新田の呪文が効いてくる。

 お前のその嫉妬は兄としてかと、反芻した内容が脳内でガンガンと警鐘を鳴らした。

 うるさい。邪魔だ。辞めてくれ。違う。くそったれ。


「兄ちゃん」

「うん」


 兄ちゃん。と何度も続く呼びかけに、ただただ相槌を返した。

 何が言えただろう。ぐるぐると渦を描く仄暗い感情に蓋をして、一体何を言えば良かったのだろうか。

 透き通るブロンドが毒々しいほどに鮮烈で、とても見つめてなんていられなかった。焦点をずらして、指だけでその滑らかな感触を辿り続ける。

 倒錯した心をまろやかにする術は、最後まで見つからなかった。

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