波紋は止められますか?⑤


 凛と響いた声の主は、良く知っていた。

 俺と新田は顔を見合わせて、立ち上がる。発声源へ向かう最中、まだ諍いが引き続いていた俺たちは我先に身を進めた。我ながら、みっともない姿であったことだろう。

 けれども、急いで良かった事実もある。

 駆けつけた現場では、ひかりと汐田さんが男たちに絡まれていた。頭に血が上ったというよりは、この可能性に気が付かなかった自分たちにただ後悔した。女子二人。ナンパの対象になっても、何ひとつおかしなことはない。

 このときの俺はまだ、冷静な判断力が残っていた。


「なんだよ、お前ら」


 鉄板だ。

 嫌になるくらいテンプレートな輩どもだ。俺はこの手の人種がどういった戦法を取るのか、良く分かっている。

 手前の汐田さんを無理やりに相手の手から引き抜いたのは、だからこそだった。ぐだぐだやりあっていたら、面倒ごとになる。

 既に火蓋は落とされてしまっていただろうが、被害は最小限に抑えることが望ましい。ましてやこちらが誘ったイベントで、汐田さんに嫌な思いをさせるのはごめんだった。


「……そっちの子も返してもらえるかな?」

「お前らこの子のなんだよ」

「兄だけど」


 はっきりしたポジションを示せない新田が黙り込んだ隙に、滑り込んだ。


「はぁ⁉ シスコンかよ、気持ち悪ぃ」

「あ?」

「君もこんな気色悪い兄より俺たちと遊んだほうが楽しいでしょ」


 するっとひかりの腕を辿った男の手のひらを見た瞬間、血が沸騰した。


「てめぇ」

「マジもんかよ」

「お兄さん、妹ちゃんのことそういう目で見てるんじゃねぇの?」


 かぁっと目の前が真っ赤に染まり上がっていく。

 耳に水が入ったかのように嘲笑が遠のいた。

 ああ、これはダメだ。

 落ち着けと、とんでもないスピードで脳内が唱え続けた。念仏か祈祷かというほどに、淀みなく要請される。

 それを黙れと抑止する好戦的な自分がいることに、何よりも慄然とした。

 箍が外れる手前まで、俺の記憶はいつも鮮明としている。葛藤はぎりぎりまで残っているのに、最後の最後に何もかも投げ出すのだ。


「兄ちゃん……」


 ぎゅっとひかりの手のひらが力強く鞄を握りしめて、かさりとハクマイ君が揺れる。

 そうだな。

 俺が理性を捨てる理屈なんて、それしかない。

 抑制を覚えたのは、半分以上ひかりのためでもある。だから、その彼女が泣き出しそうな声を上げるならば、俺はすべてをかなぐり捨てる以外の処世術をぶち壊す。




 腹いせのように、空は冴え冴えとしていた。


「平気?」


 入り込んでくるブロンドが目を射る。

 平気だと我を張るには、無理があるだろう。俺は顔面に青あざを作って、ベンチに横たわらされている。

「無茶しないでって言ったじゃん。約束」

「……悪かったよ」


 腕をクロスさせて、自分の視界を遮る。そうでもしないと、やりきれない。

 人を殴ったのは久しぶりだ。

 別に不良をやっていたわけではない。変なやつらに巻き込まれて、子分扱いされていたのとも違うだろう。

 けれど、俺は中学時代に、かなりやんちゃをしていた。喧嘩に明け暮れて、身体にあざをつけていることなんて日常茶飯事だったのだ。

 親父はそれほど、重厚に受け止めてはいなかったように思う。俺だってこちらから喧嘩を吹っ掛けるような真似はしていなかったから、重大なことにはならなくてすんでいた。

 そんな生活を辞めたのは、ひかりが眉を顰める理由が一番大きい。ひかりがダメだと言うから、こいつに必要以上の気遣いをされたくないという思いで辞めた。

 折良く俺は、喧嘩三昧の日々から身体を鍛える楽しみを見出していたので、徐々にシフトする形で無理なく足を洗うことに成功した。

 上級生や、他の誰かに強制されていたわけじゃない。俺を特別引き留めるようなやつらはいなくて、高校では影のように腰を落ち着けていた。


「……ありがとう」

「何もされてないだろうな」

「汐ちゃんも私も平気」

「本当だな?」


 腕の隙間から見上げれば、ひかりは緩く首を縦に振った。


「……腕は」


 たったあれだけの接触だ。

 あれがその辺の同級生からのものなら、俺だって神経質になったりはしない。けれどもあれは、セクハラだとか痴漢の類だ。

 ひかりは視線を逃がして、自分の腕を庇った。


「気持ち悪い」

「うん」

「……気持ち悪かった」

「おう」

「汐ちゃんがどうにかされたらどうしようって」

「ああ」


 ぎゅっと唇を噛みしめて、ひかりは押し黙ってしまった。瞳にうっすらと涙が滲んでいる。


「もう大丈夫だよ。汐田さんも、お前も」


 こっくんと落ちた顔が、戻ってこなかった。

 些細といえばそれまでだ。

 だが俺は、自分たちが駆けつけるまでに何が行われていたのかは知らない。もしかすると、気味の悪い言葉を投げかけられたりしたのかもしれない。怖い思いをしたのだろう。その事実さえ分かって、一身に引き受けることができるのならばそれでいい。

 詳細を聞くことなく、俺は黙ってひかりを見上げていた。


「ひかりちゃん」


 俺たちはレストラン前のベンチを陣取っている。ちょっとした騒ぎになって、遊園地には申し訳ない限りだった。店側もそれなりに状況を把握して譲歩してくれたために、俺たちはよい塩梅の処遇ですんでいる。

 どうやら連れの二人は、離席していたらしい。視野狭窄だった俺には分かりかねたが、戻ってきた二人の手にはジェラートが握られていた。


「ひかりちゃん、食べよう?」


 首を垂らしてしまったひかりのパーソナルスペースに入ったのは、汐田さんだった。汐ちゃん。とひかりの唇が動いたのが見えて、少しだけ気が抜ける。

 差し出されたジェラートを口に含むと、ひかりはそっと頬を緩めた。

 その安堵にほろりと涙が零れ落ち、ひかりはぽすんと汐田さんに抱き着く。そのタイミングは、汐田さんがひかりに寄り添うのとほとんど同じだった。女子二人が抱き合って、ぽんぽんと励まし合っている。

 これに口を出すのは、無粋というものだろう。恐怖を共振したもの同士だからこそ、整理がつくものもあるはずだ。

 俺はそっと上半身を起こして、二人の世界を阻害しないようにベンチの端に小さくなった。ちょっとばかり、腹部が痛む。

 相手は三人。こちらは一人だった。

 新田が必死に仲裁に入ってくれていたようだが、おぼろげな記憶しかない。俺はそれを突っぱねて、三人相手に暴れ回ったのだ。

 相応に手痛いものが返ってくるのは、自業自得である。


「ほら、お前の分」

「……俺、口切れてんだけど」

「はは、どんまい」


 心ない軽やかな口調を睨めば、肩を窄めてカップを差し出してきた。これでもまともに心配しているらしい。些か、信じがたいが。

 これを買ってきた新田に――というよりは、汐田さんの顔に泥を塗るのは気分が悪い。身構えて口に運んだひんやりとした塊は、ずきんと顔を強張らせた。


「美味いだろ?」

「いてぇよ」


 美味しさが薄れる痛覚に歪む。またもや愉快そうに笑った新田に、どっと身体の力が抜けた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る