五品目
俺の①
謹慎というのは実に煩わしくあるような、気軽であるような、何ともし難い期間だ。経験値だけはやたらとあるが、高校になってからは初めてのことで随分と久しぶりの感覚である。
まあだからといって、俺の生活が大幅に変わることはないのだけれど。
昼日中を自堕落に過ごせる時間を手に入れただけで、早起きの生活習慣が崩れることはなかった。昔ならばいつまでも惰眠を貪っていたことだろうが、今は起きる行動原理がある。
「ひかり、弁当」
翌日がぎくしゃくしてしまったのは、やむを得ない。なかったことにするには、思いの丈は重すぎた。
「ありがとう」
受け取るひかりが、玄関先でごねる。要求が口をつくことはなかったが、出かけたくないとでもいうように動きが緩慢であった。
見下ろす俺はそっと頭を撫でて、宥める。気持ちが通じているかなんて、分からない。むしろ逆効果をもたらしているのかもしれない。けれど知らぬふりをしてはいられなかった。
「昨日のパンの残り、サンドウィッチ風にしておいたから」
「うん……美味しそう」
「早食いすんなよ?」
「えー」
いじけるいつもの調子が見られて、気が楽になる。さりげない会話が自然体であるのは、もしかするとずっとそうして気を張ってきたからなのかもしれない。
「いってきます」
「気を付けて、いってらっしゃい」
まるで自分たちが日陰にある存在だと、弁えているかのようだった。一度陽の中に出てしまえば、兄妹でいるしかない。
今明るいところへ身を投じるのは、ひかりだけだ。その心許なさを分担してやれないことに、気が沈む。
ひかりは重い足取りで、とぼとぼと登校していった。
それからの俺たちは、そっと身を寄せ合っていることが増えた。肝心なことは伝えない。特別な何かをするわけでもない。ただ小さい頃、無鉄砲に願っていた一緒にいたいという欲求を叶えるように、黙って時間を分け合う。
ひかりの隣はどんな心境を奥底に秘めていたとしても、居心地が良い。この絶妙な距離感覚は、自室に制限されていた。外に持ち出してしまったら崩壊するとでも恐れるように、俺たちはこの時間を胸に秘めている。
そうしているうちに、謹慎は開けた。
課題が厄介ではあったが、面倒くささにかまけてサボりなんてわけにはいかない。
こればかりは毎朝名残惜しそうに登校していたひかりも、いい顔をしないだろう。根本的に、真面目なのである。
「チカ、遅刻するよ?」
「だから弁当忘れんなって」
玄関先でやいのやいのと言い合う。通学路は、途中まで一緒だ。ときには共に出て、ときにはバラバラの臨機応変が今までのスタイルだった。
今日は、その周期がたまたまかち合っただけである。けれどもそれは、抱いているものの粒子による選択であるような気さえした。
駅前に行き着くより前に、道を違う。ひかりの足の運びは、見る間に重くなった。言葉なんてなくても、心残りは如実である。
そんな態度が億劫だとか、手間だとか、そういった感想はなかった。俺はどんな形状をしていたとしても、ひかりに想われていればそれで構わないのだ。思い入れの欠片が見え隠れすることが、幸せでたまらない。
「ひかり」
きょとんとこちらを振り向いた顔を、呼びつける。建物の影になる細い路地のような空間。見咎められることなど、そうはない場所。
ひかりは訝りながらも、俺の指図に従った。思えば昔から、俺を蔑ろにしたことなんて一度もないのではないだろうか。
「なぁに?」
兄ちゃんと呼ぶことは、めっきりなくなった。
含むところがあるのかは、判断に苦しむ。ただ代わりに、気の抜けた音が混じるようになった。そのことがひどく嬉しい。
兄としてではなく、常にチカとして相手取られることに胸が躍った。
「行ってらっしゃい」
「どうしたの?」
そりゃそうだ。
こんな一語を伝えるのに、わざわざ隠れることはない。
「ちょっとだけ」
金色の頭を包み込んで、引き寄せる。
「チカ、ダメだよ」
「うん」
「チカ」
「……知らなきゃ俺たちが兄妹なんて分かんないよ」
「バカじゃん」
「成績悪いの知ってんだろ」
「バカだよ」
「うん」
ひかりの腕が背中に回って、きゅっとシャツを握り込まれる。漠然とした理への罪悪感に苛まれながらも、快楽からは逃れられなかった。
「行ってらっしゃい」
突き放すほど強気には出られないが、ぐっと振り切るように身体を引き離す。
「……いってきます。行ってらっしゃい」
「おう。行ってきます」
ワンテンポを置いて、それぞれに路地から這い出る。陽の光に照らし出された俺は、踏ん切りをつけるように歩き始めた。
引き際を決めるのは、自分のような気がしている。
自己中だと言われても、制御役は俺だろう。ひかりに背負わせるには、荷が重い。
馬鹿にするなと柳眉を逆立てそうだけれど、力仕事は俺の担当分野のはずだ。兄として機能できないのだから、このぐらいはひと役買わせて欲しかった。
独善的で、自我ばかりがむくむくと膨れ上がっているだけなのかもしれない。けれどもこれだけは、俺の矜持だ。
久しぶりの学校は、これといった変化もなかった。俺が殴り合いの喧嘩をしたことはよもやま話のひとつになっていたらしいが、謹慎中にほとぼりは冷めたらしい。
そもそもそんなことは俺にとって些細なことでしかなく、新田と顔を合わせるほうがずっと緊張した。
「おっす。謹慎ご苦労さん」
「……おっす」
思わず、まじまじと顔を眺めてしまう。新田は涼しい顔をしていて、ひかりからの報告がなければ何かがあったなんて勘づきもしなかっただろう。
「何? 俺の顔になんかついてるか?」
「ついてないけど」
「えー、じゃあかっこよすぎて見惚れた? ごめんな。俺、そっちの趣味はねぇんだよ」
「俺もそんな趣味はないっての」
「じゃあ、どうした?」
新田の手腕には、舌を巻くしかない。
戯れをしかと棄却してしまったら、退路を断たれたも同じだ。用をでっち上げなければならないだろう。
こんなとき、一から逃げ口上を練り上げるのは大変だ。そして俺はそういったことに手が回らない。短く息を吐き出して、決意を固めた。
「ひかりに振られたって?」
「痛いとこをついてきたなぁ」
「痛く見えない」
「いや、これでも感慨なんてものを感じたりはしてるよ」
「百人切りは意外なことだな」
「兄に負けますから」
「は?」
ことのあらましを、微に入り細に入り追及したりはしていない。そんなことをする心の余白は一ミリたりともなかった。
故にこの場で、自分との優劣が引き合いに出される意味が解らない。
「俺じゃダメかって言ったら、ごめんなさい。比べるなんてできませんって」
「違うもんだから比べられないって話だろ」
やに下がりそうになるのを、自制心で押しとどめた。無垢に喜んでいいものかは微妙なラインだ。いや、踏み越えているだろう。
正直になれば歓喜に彩られるが、客観視すればひかりの口上はあえかに不謹慎な論法ではある。
「そういうもんかね」
「そういうもんだよ」
チャイムというのは、すこぶる便利だ。告げられたタイムリミットによって、俺たちはそれぞれに引き上げた。
それ以降、この題目に触れることがなかったのはまっとうな処置だっただろう。新田が賛同してくれたのは、思ってもみない幸運だった。
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