波紋は止められますか?②
「で?」
「開き直り?」
「何を不貞腐れてんのかって聞いてんだよ」
ひかりの機嫌を大雑把に言い当てるくらいわけはない。
兄妹である時間に関係なく、それくらいはできるようになるものだ。付き合いは長い。そしてこう言った場面のひかりは、異常なほど分かりやすい。
ひかりはぐっと喉を詰めるように黙り込んで、足を外した。
「うわっ!」
それは誰が発した声か、得体が知れない。バス内に同じような声がいくつも上がって、誰とも知れない呟きが場を支配したものだった。
「ごめん」
「アホ」
身体がぶつかり合う謝罪はあちらこちらで散見されたが、罵倒で返したのは俺だけだっただろう。知り合いでなければ一触触発であるし、ひかりでなければここまで蔑ろにはしていない。
立て直すのに時間がかかっているのは、車内がおしくらまんじゅう状態だからだろう。俺と新田の間にいたひかりは新田側から、ごめんね。と謝罪を受けていて、あまり身動きが取れないらしいことが窺い知れた。
細事がこちらから目視できない時点で、お察し案件ではあったが。
「大丈夫か?」
「……このままでいい?」
「鍛えてる兄ちゃんに感謝して」
「兄ちゃん、最高」
「馬鹿正直かよ」
いつから日課になったのか、自分でも良く覚えていない。俺は日記や記録を残す性格でないから、いつの間にかなんてありふれたものだ。
開始時期はあやふやだが、腕立てや腹筋・背筋を熟すことが日課になった。ひかりからは言外に煙たがられている節があったが、それでもやってしまうくらいに趣味としている。
目に見える形で進化を遂げていくのは、達成感があって良いものだ。金銭的な余裕があれば、ジムにでも通ってみたい。
ようやくシックスパックに割れ始めた腹筋は、己の肉体の中で唯一自慢できる部位である。ひかりを受け止めたくらいではいっこうに揺るがないのだから、鍛えていた成果はあった。
ただし悪いことに、ついつい筋肉に目が吸い寄せられてしまう悪点ができつつある。
ひかりが突然引き合いに出してきたのは、汐田さんの足を観察していたことを揶揄ってのことだろう。変態と罵られても釈明できないので、気を付けなければならない点であった。
いや、汐田さんに関しては冤罪だが。
「そんで、お前は何が気に食わないわけ?」
「別にそういうわけじゃなくて……友達に色目使われるのがなんか、落ち着かないっていうか……」
「使ってないし、疚しいことはありません」
「でも結構タイプじゃん?」
「アホか。タイプだからって見境ないわけじゃないの」
「……うん」
タイプだけで分類するなら、ひかりはどストライクだ。それはもう、認めがたいのだけれど。こればっかりはどうしようもない。
妹じゃなければ――と言うのは、決して口にしてはならない禁句だろう。それを言ったら、俺たち兄妹の形は跡形もなく崩れてしまう。
最後の砦だ。
ひかりはこっくんと頷いたきり、いい募ることもなければ、不機嫌さも消した。鋭かった眼光が緩くなって、俺の胸板に枝垂れかかって神妙にしている。
身体の間で柔軟に形を変えている物体は、感覚の埒外に追いやった。
じきに身動きが取れるようになったひかりは、すとんと背筋を正してバスに揺られていた。
「ついたー……!」
乗り合わせた別の集団の嘆息は、この場の代表であっただろう。
歩道に降りるや否や、新鮮な酸素を肺に取り込みたくて深呼吸に精を出す。雨期にあってからりと晴れた爽やかな空気が、身体中を塗り替えていく。クリアさは並々ならぬものであった。
「大丈夫だった? ひかりちゃん途中変な態勢になってたでしょ?」
「平気ですよ! チカにぶつかっただけだから」
「ああ、だったら問題ないな」
「俺にぶつかってるのは平気って言わないんだよ。ふらふらしやがって」
「だってチカがちょっかいかけてくるから」
「可愛くないのをかけてきたのはそっちだろ」
「まぁまぁ」
「落ち着いてください」
仲裁役が増えた。
新田のものなど痛くも痒くもないが、汐田さんを粗雑にいなすには色々と気負う。まだまだ打ち解けていないだとか、妹の友達だとか。様々な思いが絡まっていたし、受けたばかりのひかりの言質がこたえた。そんな気は毛頭なかったのに、一度指摘を受けると分別がないほどに頭を掠めるものだ。
不都合なことばかりしてくれる。そして、俺は、まんまとひかりに翻弄されている。
ちゃっかりひかりの隣をキープした新田が、エスコートするように先んじていく。こうなると汐田さんを放り出すわけにもいかず、俺と彼女が並ぶことになった。
ぎくしゃくするのも、仕方がないだろう。
「招待券忘れてないよな?」
「こっちのセリフ。てかなんでこっち回したんだ」
「予定が合わなかったらひかりちゃんたちだけでも行ってくればいいと思って」
「そんなつもりだったの?」
「だったよ。穂村に――佳親君に? 渡しておけば安心だしな」
「わざわざ言い換えんなよ」
「だってひかりちゃんも穂村じゃん? 兄妹ってこういうときどう呼んだらいいのか分からなくなるなぁ」
「私も佳親さんのことどう呼んだらいいか迷います」
「佳親さんはやめて」
どうにもこっぱずかしくてならず、気がそぞろになる。あまりにも耳馴染みがなくて、単刀直入に言えば気持ちが悪いとさえ思えた。汐田さん相手でなければ、俺はぽろっとクレームをつけていたかもしれない。
「じゃあ、お兄さん?」
「せめてチカさんで」
「はい」
ふわりと微笑むと、空気が解ける。柔和な風合いを持つ女の子だ。
ひかりはブロンドや巨乳。色々なものが燦然と主張をして、めりはりのある空気を持っている。比べるわけではないけれど、ひかりと並べれば汐田さんはまるで小動物のように周囲を和ませる可憐さを発揮していた。
ひかりの言うリボンの似合う女の子とは、こういう子を指すのだろう。言わんとすることは分かる。
けれど、だからと言ってひかりにリボンが似合わないとは全く思っていない。似合うに決まっている。まだ小さかった頃、リボンの髪留めをさして無邪気に笑っていたお前を知っているのだ、俺は。
近所にいるどんな女の子よりも、精彩を放っていた。
行進が二列になることはやむを得なかったが、会話はクロストークだった。助かったなんて思っている自分には、少々苦々しい。俺はこれほどまでに女の子に耐性がなかっただろうか? ひかりの相手なんて、ぞんざいに熟してしまえるというのに。
あまつきパークというなんの捻りもない地元のテーマパークは、派手派手しい装飾で俺たちを呑み込む。
大きな観覧車が目玉の遊園地は、それ以外のアトラクションも豊富で、地元民としては鼻高々の場所だった。情報雑誌に特集が組まれることも、少なくない。
園内に入れば、喧騒と嬌声がわっと襲い掛かってくる。開演したばかりだなんて微塵も感じさせない賑々しさは、テーマパークが持つ独特の浮遊感だ。
各々が、きょろきょろと周囲を見渡す。俺はあまり、こういった娯楽施設に来ない。その物珍しさに、視線が横滑りする。売店が立ち並ぶストリートを歩きながら、新田が園内地図を取り出していた。
「お前、良く来るの?」
「いや、しばらくぶりかな? そうそう出せるもんじゃないしね」
総じて金銭面がネックらしい。
デートスポットに組み込んでいそうなものだ、なんてのは下品な勘繰りだったようだ。
「私も久しぶりです」
「私もだよ。小学生以来じゃない?」
「ああ……そういえばそうだな」
親父が張り切っていた後ろ姿が思い浮かぶ。俺の隣には小さなひかりがいて、あのときから既に今の家族と一緒だったのだなと思い返した。
あの頃親父は遊園地に年甲斐もなくはしゃいでいるのだと思っていたが、今にしてみれば母とのデートに浮かれていたのかもしれない。何しろ、子どもを残して外国についていくほどだ。夫婦仲は相当に良好である。
母は母国に戻るも同じことだが、それでも海外には物騒な先入観が付き纏う。親父が寄り添う心配りも分かっているつもりだし、息子として母を案じる気持ちだってあった。
だから、日本に残されたことへの不満は、これっぽっちもない。自由な高校生活は、気楽でいいことだ。
ただ少し、今になってお前は異性と暮らしているのだと自我を叩いてくる事柄が降って湧くくらいなもので。
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