兄と妹とはなんですか?⑤
もういいのだろうか。
分かるわけもなかった。
ひかりは脳内が白米で埋もれてるんじゃないかと危ぶむほど、大部分を食事に占領されている。
けれども、決して馬鹿ではない。
俺よりもずっと賢くて、視野が広い。世間体の掴み取り方も、鮮明でデリケートだろう。俺は体面なぞ、中学時代に捨て去ってしまった。
白い皿にサバの味噌煮は良く映える。平凡さは、重要だ。安らぎや平穏を抱かせる風景は、ペースを取り戻せる一片である。
あの場の出来事が、波紋を呼んでいた。俺ですら、さざめくような揺れが広がり続けている。上手く飲み下せない感情が、ぐるぐるとわだかまっていた。その上、論拠は不明瞭で掌握しきれない。この気持ち悪さを消化するきっかけは、無色透明で姿さえ見極められなかった。
能天気に生きている俺ですら底知れないしこりが残っているのだから、ひかりが破調をきたすのも当然の気さえしてくる。
ひかりは義理の兄妹に捕らわれ気味なところがあった。ともすると、俺よりも確実に不快の塊として何かを汲み取ってしまっているかもしれない。
「兄ちゃん、まだ?」
……与するつもりのない兄貴呼び。そこに考えを挟み込んでしまうのは、無粋でも無礼な勘繰りでもないだろう。踏ん切りの悪さが付き纏って、それが足枷になってしまっているのだ。
もしこれが本当の妹なら、俺はひかりの気持ちを隅々まで見透かすことができるのだろうか。
分かっている。
そんなことは本物であっても不可能だと。
けれども、どこかで尻込みする因子になってしまう。義理の兄妹というのは意識すればするほど、そういったものがしがらみになっていくものなのだ。
少なくとも、俺たちはそうだ。
「ご飯は?」
「もうついであるよ。味噌煮待ち」
「すぐ行く」
リビングにつけば、向かい合うことを避けられない。
二人でいても、そのことに激しい拒否反応が起こったこともなければ、居心地の悪さにいたたまれなくなったこともない。
何故だろうか。
今日だけは、どうにも視線がうろつくばかりで重苦しい。
「おかわり」
数分後に発せられたへこんでいようがお構いなしの文言に、拍子抜けしてしまったけれど。
試験明けの六時間授業。
通常運転に戻った生活は、ひどくかったるい。眠気と先日の無用なやりとりが尾を引いて、陰鬱さは上昇の一途である。
愁いを帯びた午後なんて詩的な表現を用いたところで、心が持ち上がることもなければ軽くなることもなかった。
「穂村、飯は?」
「あー……」
片頬をぺたりと机にくっつけて、新田を見上げる。ここまで下方から真上に見上げることも早々あるもんじゃないが、どこから見ても嫌味なく整っているやつだ。
「弁当あるから」
「毎日毎日よく作るよなぁ」
「ひかりが食うから」
「……ああ」
合点がいったようだ。生真面目な顔が、緩やかな弧を描いた。思い出し笑いのような様相に、ぎゅっと心臓を潰されたような気分になる。
「なんだよ」
「いや、いい食べっぷりだったなぁと思って。いいよね、たくさん食べる子って」
「あいつはたくさんのレベル超えてるけどな」
「でも見てて気持ちいいじゃん」
拒むところは、ひとつもない。ひかりが美味しそうに俺の飯を食っているところを見るのは、とても好きだ。
小気味良く、折り目正しい雰囲気が心地良い。ましてや食べているのは、好きだと表明している俺の手作りだ。
新田よりもずっと、切々に実感している。
「食わないのか?」
「食うよ」
「お前、どうした?」
「……いや、別に」
「昨日から俺に威嚇してるの分かってる?」
「は?」
上目に窺うと、新田はぎゅっと眉根を寄せて肩を竦めた。複雑な表情でさえ崩れるものがないのだから、厭味ったらしいといったらない。
「嫉妬?」
「何がだよ。自意識過剰か?」
「いやー、でも俺がちょっかいかけたのは事実だし?」
「出してたのかよ」
新田は、割とフラットだ。ひかりに媚びているような言動は見受けられなかった。常日頃からスマートであるが故に、不本意ながら好印象に象られている。
「お前のそれは、兄としてなの?」
「……何が言いてぇんだよ」
神経過敏になっている。
ひかりに同調したかもしれない。ひかりが気に病むことを、思案の外に置くことはできなかった。世間の評価は取るに足らないと思っているが、ただ一人同じものを共有できる妹の感性は軽々しく見捨てれらない。
「いや、そりゃお前らは兄妹だろうけど、兄妹じゃなかった期間のほうがずっと長いわけだろ? すぐに妹だって切り替わるもんか? 一応、意識とかしそうじゃん。俺ならするしな。ひかりちゃん可愛いってか、女の子として魅力的だろ、肉体的にも?」
「……赤裸々すぎだろ」
目に飛び込むインパクトとして、ひかりのそれは胸だろう。脚も存外美脚なのだけれど、豊満な山を目の前にすると霞む。
そして、それが俺の性癖に直結していることは、この間ひかりにバレたばかりだ。図らずもそれをはすっぱに突かれて、俺はぐしゃりと髪の毛を掻き乱した。
「……兄としてだと思ってるけど」
肉体的な観点は、すっぱりと切り捨てる。じっくりと考えても、それはそれだ。妹だろうと物体は物体としての魅力で、別口だと幾度となく理論を組み上げた。
「そうか?」
「しつこい男は嫌われるぞ」
「じゃあ、軽やかにひかりちゃんをデートに誘ってもいい?」
「はぁ?」
悪いわけがない。
けれども咄嗟に出た自身の不機嫌なトーンには、喉が詰まった。
兄としてだ。兄として、多少なりとも親心的な心情が渦巻いているだけだ。どんな男かも――いや、素性は割れているし、なんなら俺の友達だけれども。しかも先輩のときは否定した心情だけれども。
それでも知らない男に嵌られるのは、いかんともしがたかった。
「……兄ちゃん、厳しいって」
「だって新田君女の子百人切りの噂あるじゃないですか」
「知ってたか」
「マジかよ」
堂々と肯定する顔が笑っていて、冗談か本音か判別ができない。
新田はモテる。
それはかなり友好的で、ポジティブな評価だ。一部においては、女をとっかえひっかえしているなんてろくでもない下馬評もついて回っている。
部活動に励んでいる男子高校生にそんな時間があるのかと思うのだが、バレー部はそれほど真剣みのある部活ではない。部活でも活躍しているように見えるのは、新田自身の運動神経によるものだ。
どこまでも、隙のない男である。
「そんな男とのデートは許可できません」
「シスコン」
「結構だ」
ふんと、鼻を鳴らして開き直った。
こういう場合、坩堝に陥るといけない。この感情が、兄の領分なのかなんてことに捕らわれてしまったら最後、歯車が狂う。
無自覚のうちに気取っているのか、深層心理が叫ぶのか。逃げようとしているのか。曖昧模糊としたままに、俺は気休めの決断をなぁなぁに下す。兄として、揺らいではいけない境界があるはずだ。そう言い聞かせているのは、初めてのことではなかった。
歯車は最初から狂ってしまっていたのかもしれない。
「でも、ここに遊園地の招待券があるわけだ」
「二枚?」
「……四枚」
「穂村兄妹サンドも味があっていいと思うけどな」
「男と行って何が楽しいんだよ」
「友好を深めようぜ、智君」
「きもい」
新田にしては珍しく苦み迸る顔に、腕を擦るおまけまでついてきた。我ながら鳥肌ものだったので、気直に断罪してもらえて何よりだ。
この不毛な掛け合いの決着に、新田は招待券を差し出してきた。
「どうせ余るしな。どうせついでに、ひかりちゃんに誘いたい子いないか聞いといて」
「ああ、分かった」
「予定はおいおい」
四人になるのであれば、それはそれで合わせる予定が増える。新田のごく自然な発案に顎を引いて、この場はお開きとなった。
冗談交じりに受け止めていたデートという文言は、そこにダブルを付け加える形でほぼ現実と化すのだが、その頃の俺は知る由もない。
ひかりの好みに合わせたお弁当の甘い卵焼きに、うつつを抜かしていた。
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