好物はなんですか?⑤

 制限時間は三十分。ペア参加が可能で、時間内に何杯食べきれるかを競う大会であるらしかった。

 現在の最高記録はペアで十三杯。それが大食い大会と銘打った場所で多いのか少ないのかは、はっきりとしない。ただ俺には、耳にしただけで満腹になる分量であった。

 最高記録を塗り替えれば、賞金が一万円。タイで無料、それ以下で食べた分の半額支払いの設定らしい。挑戦料として、一杯分は必ず支払うようになっているそうだ。

こういったキャンペーンに遭遇したこともなければ挑戦したこともないので、ルールの良心は分かりかねた。

 ひかりは、お得ですよね。とにこにこしながら坂神先輩に笑いかけている。そうだな。と頷いている先輩も何やら臨戦態勢らしく、ようようこの二人の関係性の本質が掴めなくなってきた。

 たった今会ったにも等しい上に、取り立てた会話もしていないというのに、変な共闘意識が芽生えているようだ。ひかりが食に対して針が振り切れているのは言うまでもないが、この先輩も大概である。


「お願いします!」


 活気に溢れたひかりの注文が、開戦の合図になった。

 最初のどんぶりが運ばれてきてから、時間計測が開始する。

 俺はひかりの隣に腰を下ろして、対面して器に挑む二人を観戦する傍観者だ。人だかりができるほど繁盛はしていなかったが、店内の客は押し合わせたように二人に関心を寄せていた。

 それは目立つだろう。

 女性挑戦者は今まで存在していなかった、と周囲の放談から伺える。そして挑んでいるのは、容貌だけはハーフどころか外国人風の美人女子高生だ。相棒のごつさも付加されて、注目されるのは相応と言えた。

 所在なさげに同席している無力な男も、異物として注目する要素であったらしい。不本意ながら、自分でさえも置かれた立ち位置には不可解しかなかった。今やなんのために連行されたのか、全くもって理解不能の域に達している。

 ひかりが気構えていたのは、必ずしも坂神先輩と邂逅することに対してではない。このチャレンジへの緊張だったのだろうと思い至ってしまったら、スタンスが一気に萎える。

 妹と他の男のパイプ役を任された身として、いくらか抱いていた心意気は消し飛んだ。坂神先輩を指名したのは、食欲を見越してのことだろう。そういった人物を探し出す目だけは、養われているようだ。

 事実、目の前で箸を動かす先輩には鬼気迫るものがある。

 ずるずると吸い込まれていく麺は、ほとんど飲み物のようであった。その食いっぷりたるや、天晴れだ。

 しかし、今、衆目の興味を一身に受け持っているのはひかりだった。

 黙っていれば、とてもじゃないがひかりは大食いになんて見えない。その子が大口を開けて、掃除機もびっくりなパワーでラーメンを吸い込んでいるのだから、度肝を抜かれないわけがなかった。

 俺もひかりがこれほど食うことを知ったとき、唖然とした口だ。

 一体いつからだったのだろう。俺たちには、互いの生活に介入していなかった空白の期間が存在する。ひかりがいつからこうなったのか、俺は正確な時期を知らない。

 そして、ひかりが目を惹く土壌はもうひとつある。

 ぷくりと潤った唇。邪魔になることを見越して、ひとつに纏めて括りあげた髪の毛のおかげで露わになる首筋。料理に対する礼儀とばかりにピンと伸ばされた背筋と、綺麗な箸運び。

 見ていて気持ちがいいほどに均整の取れた、どこかに色香を漂わせる少女は男どもの目を攫うには十分過ぎた。

 メニューによってもたらされる大量の汗粒と、はふはふと吐き出される熱い吐息があらぬ妄想を掻き立てる。時折零される耽美的な呻き声が、耳朶を擽って性を揺さぶった。

 周囲から運ばれてくるごくりという喉音は、果たして食事中だからであろうか。

 やたらと喉が渇いて、お冷を飲み下す。


「おかわりお願いします!」

「こっちも」


 ギャラリーの様子などそっちのけの早業で、二杯、三杯とどんぶりが重ねられていく。俺はひかりに水や調味料を渡し、タオルで汗を拭うサポーターのような立場を確立し始めていた。

 この尋常ならざる熱意は読解しかねるが、ひかりが本気なのは伝わってくる。

 だから支えてやりたいなんて、健気なことを思ったわけじゃない。汗を垂れ流すあられもない姿を観客に見せ続けてたまるかという、兄の心境に素直になっただけだ。

 本音を言えば片っ端から殴り飛ばして、牽制してやりたいほどだった。実地に移すほど無謀ではない。加えてやったらやったで、自身すらも艶やかなものと捉えているとひけらかすことになるのでやれるはずもなかった。

 十五分が経過し、ひかりが五杯、坂神先輩が六杯と、とうに記録更新は確実となっていた。

 しかし、二十分も経過すると坂神先輩は失速し、七杯目で悪戦苦闘を始めた。その眼前――俺の隣では、ひかりが軽妙な腕回しでどんぶりの中身を片付けている。

 一杯につきおよそ三分のスピードを保持し続けて、坂神先輩に並ぶ。面差しや心得から察するに、ひかりが余裕綽々であることは誰の目から見ても明らかだった。

 どうせ威勢が落ちるだろうと踏んでいた様子の客が、にわかに活気立つ。新記録はどこまで伸びるのかと、興奮は高まっていた。


「残り一分」


 サポーターだったはずの俺は、いつの間にかタイムキーパーにもなっていた。ストップウォッチは店主とこちらとで同時にスイッチを押しているので、誤差はあっても数秒。詐欺行為など、できはしない。

 ぴぴぴっと響き渡った電子音と時を移さずに、最後のどんぶりが空になって挑戦の幕は閉じた。


「ごちそうさまでした」


 ぱんと綺麗に手を合わせたひかりの目の前には、一杯三分で平らげ続けた十杯分のどんぶりが積まれている。

 坂神先輩は八杯でギブアップしていたが、最終結果はペア挑戦十八杯。滞りなく記録を塗り替えることに成功した。

 正直、体調不良を訴えてもおかしくない先輩に比べ、ひかりは美味しかったなんてこともなげに言う余白を残している。時間があればまだ食べただろうな、と渇いた笑みが張り付いた。

 元より、記録を打ち立てるつもりで臨んだに違いないのだ。これほどの出費の当てがあったとは、露ばかりも思われない。その類稀なる自信には二の句が継げないが、食べ方は称賛に値するほど爽快だった。

 店内を包み込んだ拍手に気恥ずかしそうに笑うひかりを見ていると、強引な事態も結果オーライかもなんて思うのだから俺はポンコツなんだろう。

 それから俺たちはしばしの間をおいて、店を後にした。

 坂神先輩には正真正銘パートナーとして声をかけただけで、それ以上の腹積もりはびた一文もなかったらしい。ひかりは連絡先を聞くことさえもせずに、ありがとうございました。と頭を下げて終わらせた。

 坂神先輩には、思うところがあったのかもしれない。けれど彼は抗議をすることもなく、大きな身体を一回りほど縮ませて帰っていった。

 腹具合の不都合か、別の問題か。申し訳なさで、胃に穴が開きそうだ。学校で遭遇することなく生活できること渇望する。気まずくてならない。

 こんな妹ですみませんでした。

 俺は心の限りに謝罪を込めて、低頭で彼の後ろ姿を見送った。あまりに慇懃な態度にひかりはぎょっとしたようであったが、取り分けて感想は口に出さなかった。

 すべての工程が終わったのが、十三時。土曜日はまだまだ残っているが、坂神先輩にとって災難な一日であったことは確実だろう。

 入店時と変わらない上空の麗らかさは美々しさを誇っていて、俺はまたぞろ溜息を零した。

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