好物はなんですか?④

 その週の土曜日。待ち合わせは駅前に十一時半。

 約束を伝えると、ひかりは心に羽が生えたように俺に飛びついてきた。女性特有の実に甘美な物体を身体に押し付ける挙動は、どこの馬の骨とも分からん野郎にやらないように言いきかせておきたい。

 ひかりは無頓着なのだ。

 妹の胸元に目を奪われているなど、兄としての矜持があるため注意はしない。しないが、したほうがいいのかもしれないと最近ではより顕著に思うようになった。また大きくなったよな、とは口が裂けても言えたことじゃない。


「で、なんで俺まで来なきゃならないんだよ」


 遠い目にもなろうというものだ。

 俺なら約束を取りつけてきた女の子が兄貴と連れ立って現れるなんざ、ごめんこうむる。何を試されているのか、怖くてたまらない。


「だって、緊張するんだもん」


 たとえそんな背景があったとしても、ついてくる兄もどうかしてるんじゃないかと相手の立場になったらならば思ったことだろう。俺自身、どうしてこんな野暮ったいことをしているのだろうと頭痛がしていた。

 今朝、朝食の席でこともなく参加を言い渡されたときは耳を疑った。けれども、ひかりは梃子でも動かなかった。挙句の果てには、兄ちゃんお願い。と縋ってくる始末だ。

 俺が折れるのもしょうがないというものだろう。

 やってきた坂神先輩の顔を見るにつけ、申し訳なさは増幅の一途だったが。よもや、おじゃま虫がいるなど読めるはずもあるまい。


「えっと」

「すみません、なんかついて来いってうるさくって。邪魔しませんので」


 俺は二、三歩下がって弁明を述べたてた。

 たじろぎ気味の先輩は、濁った返事を口の中で転がしながら頼りなく迎え入れる。これっぽっちも合点がいっていない態度だ。当たり前である。

 男二人の微妙な顔色をよそに、ひかりはけろっとした顔でいた。予告通りに多少はぎこちなさが垣間見えたが、あくまでもごく一部だ。平時を知っていなければ、分かりようもないような微々たる差分である。

 一人でも大丈夫だったのではないかと、疑念が浮かんだ。帰りたさはぶくぶくと膨れていく。身の置き所のなさは、尋常ではない。

 二人の対話もできる限り削ぎ落して、知らぬふりを通した。聞き耳を立てるのも趣味が悪いし。とは建前で、妹のそういった親睦を聞くことが堪えがたかっただけだ。

 生憎と、駅前は意識を散らすに便利な場所である。様々な店舗から流れてくるBGMやCMに集中していれば、二人の声は最低限までボリュームが絞られる。

 ひかりの声をやたらと拾いがちになる耳には、苦笑ものだった。

 苦行と呼ぶには誇張が過ぎて、しかし僥倖というわけではない時間からは、それから十分もしないうちに抜け出せた。これほど長い十分など、そう体感することではない。

 ひかりは自然の摂理とばかりに俺を呼びつけたので、退散することなど不可能だった。俺がいるまでもないと思うのだが、ひかりにとってはごく自然なシチュエーションであるらしい。

 これほど気を回さない人間ではないはずだが、今日に限っては著しく心配りが欠如しているようだ。


「どこ行くんだ?」


 数歩後ろを追従しながら声を投げると、ひかりがとろとろにふやけた表情を寄越した。嫌な予感が迸る。


「ラーメン屋さん!」

「……いいんすか?」


 お節介だと言われようとも、聞かずにはおれなかった。元気のなさは拭い難いものの、首肯する先輩には頭が上がらない。身体の大きさと器量のでかさが比例しているのかもしれない。

 ジト目で我が妹を見やるも、ひかりはどこ吹く風で嬉々としていた。ラーメンに思いを馳せていることが、一目瞭然だ。

 ああ、これはダメだな。

 ひかりは無我夢中になると、周囲が見えなくなる。中でも食事に関する集中力は、絶大的だ。執着心も強いし、俺が横取りでもしようものなら恨み節は留まるところを知らない。

 一度は真剣に、取っ組み合いなるのではと危惧するまでに発展しかけた。これには俺の沸点が低いことも関与しているので、あまりひかりばかりのせいにしてはいられないのだけれど。

 俺はもう、黙ってついていくしかなかった。

 ひかりが何を考えているのか、白日のもととなった。普段通り、飯のことしか考えていない。

 こうなってくると、坂神先輩が何を考えているのかてんで分からなかった。お人好しなのだろうか? 兄貴がついてくるわ、出かけ先はラーメン屋と色気もへったくれもない場所だわ、散々なことだろう。

 到着したのは、年季の入った店構えをした中華店だ。ラーメンが美味しいと評判の店で、この辺りではそれなりに名が売れている。

 出ていたのぼりを見た瞬間、俺は天を仰いだ。

 雲一つない晴天は、まるでひかりの心境を反射したようにすっきりしている。その眩しさに、目を細めて嘆息した。

 ガラガラと扉の開く音が耳朶を叩いて、視線を前方へと戻す。

 スペシャルラーメン挑戦者募集中ののぼりが、挑戦者を煽るようにぱたぱたと風に靡いていた。

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