一品目
好物はなんですか?①
俺の朝は早い。
炊事担当として、言わずもがなである。弁当まで追加されれば、早起きは免れなかった。
ぎりぎりに起きてくる妹の奏でる騒音をBGMに、俺はてきぱきと準備を熟す。四月から始まったばかりの妹との二人暮らしには、徐々に慣れつつあった。海外出張中の両親の代わりは楽じゃないが、順調に習慣づき始めている。
「チカー、お弁当」
「できてるから持ってけ」
「持ってきて!」
「甘えんな!」
「だってもう靴はいちゃったんだもん。時間ないよ」
「なんで今日早いんだよ」
「委員会!」
「先言っとけよ。ほら」
「ありがとう、兄ちゃん。行ってきます」
「へいへい、いってらっしゃい」
慌ただしい足音が、アパートの廊下を駆けていく。あんまり騒がしくすると近所迷惑だと、何度言えばいいのやら。
ひかりの朝は遅い。
朝食の匂いに釣られるように起きてきて、飯を食ってようやく目覚める。登校時間がぎりぎりになることも、そう型破りなことでもなかった。
料理は嫌いじゃないし、他の家事はひかりがやってくれているのだからケチをつけるつもりはない。けれども寝起きくらいは、どうにかして欲しいものだ。
とはいえ、俺にだってそんなひかりをのんびりと見送っている暇などない。早起きの得などはほとんどなく、性急な足音を追うように家を出た。
早起きのツケ、なんていうつもりはない。
つもりはないが、学校で眠気に襲われるのはいつものことだった。校内では四六時中どこかで誰かがそうしているので、呪いか何かなのかもしれない。
大欠伸を零しながら、時間割を消化していく。俺の頭の中は、夕飯のメニューでいっぱいだった。
今朝方作った味噌汁が残っているから、一品は決定だ。タマネギ・ニンジン・ジャガイモは買い置きがあるので、豚肉でも補充して野菜炒めにするかと思考を巡らす。
それだけでは不満足であろうひかりの腹具合を思うと、大息が零れそうになった。
俺は主婦か。いや、ひかりの専属シェフかもしれない。
もう一品、いや、二品は欠かせないか。昨日議題に上ったデザートの文言は、右から左へ受け流しておいた。
「穂村、お前何やってんの?」
「広告チェック」
「主婦かよ」
「俺もそう思ってたわ」
手元のアプリ情報を追っていく。特売を見逃す手はなかった。家計のやりくりは、俺の腕にかかっている。エンゲル係数を一人で五倍には跳ね上げかねない小娘がいると、節約は必須スキルだ。
「お前、ネクタイまたやってない?」
「ああ……ひかりのやつが持ってった」
「妹ちゃんそそっかしいのな」
遅刻に滑り込みセーフなのか、ぎりぎりアウトなのか判然としない間合いの朝を迎えていれば、そうなるのもやむを得ないだろう。
諸手を挙げて降参している俺も悪いのかもしれない。それにしたってひかりのネクタイ取り換え事件は、春先から数えて既に二桁に届いていた。
「しっかし、仲いいよな。お前んとこ」
「別に普通だろ?」
「そうか? 俺ならネクタイせずに来るけどな」
「見つかったら指導が面倒だろうが」
「違ったら一緒じゃないか?」
「してないよりマシだろ。目立つ」
「気付くやつは気付くぞ、普通に」
「
「女子ってのは目敏いんだよ。
「安直」
「ネクタイ交換流行ってんだってさ、男女で」
「ふーん?」
「穂村は気にしないわけ?」
「どこに気にする要素があった?」
「シスコン?」
「誰がだよ」
適当な日用品のチェックを終えて顔を上げれば、
眉目秀麗。智勇兼備。そんな言葉が似合うクラスメイトは、何もしなくたって俺なんかよりよっぽど目立っている。
黒い短髪に白い歯を見せて笑う爽やかさは、どこをどう切り取っても好青年だ。これでバレー部レギュラーというスポーツ少年なのだから、印象が良くなければ嘘である。
俺とは並べるだけ無駄だ。身長ひとつ取ってしても、スペックが違い過ぎた。
「いやでも、お前妹のこと可愛いって衒いなく言うじゃん? それほど歳の離れてない妹にそういうの珍しいだろ」
「俺、妹の年齢なんて教えたっけ?」
「聞いてない」
けろっとした顔だ。新田は予測を疑いなく繰り出す自信家なところがある。
まぁ、間違っていないけれど。
「……別にいいだろ、可愛いんだから可愛いで」
「シスコンじゃねぇか」
「はいはい」
巻き戻ってくる問答は、はた迷惑だ。平然と折れた俺に、新田は合点がいった顔半分、呆れ顔半分を寄越した。
その後、言い募りたいことがあったのかは定かではない。俺と新田の間にはチャイムが割って入り、やつはすんなりと席へと戻っていった。
俺とひかりの兄妹としての距離感が、同年代の兄妹に比べて違うことは分かっている。
小さな言い争いは日常茶飯事だったが、仲違いするほど大喧嘩をした試しはない。諍いなど、軽口の一部だ。
そして、良く耳にする妹にありがちな兄を毛嫌いする傾向を、ひかりは持っていなかった。そうなれば、俺からひかりを遠ざける動機などない。食欲旺盛が過ぎるわ、寝汚いわ、もの申したいことは山のようにあるが、それでも妹は可愛いかった。
周りにからかわれる事態は面白くないけれど、事実は事実として曲がらない。二人暮らしとなった今では、保護者的な心情も持ち合わせているかもしれなかった。
あいつ、生活力ないからな……。
家事手伝いはできるが、一人にすると生活が破綻しかねない。何より、食事のバランス崩壊は免れないだろう。
俺がついていなければ。
「チカ!」
「うおっつ⁉」
掛け声とともに掻っ攫われた荷物の衝撃に、ぎょっとする。
隣に並んだ長身は、あっけらかんとした顔でビニール袋を揺らした。
「もっと普通に声かけろ! ビビったわ。卵入ってるから、気をつけろよ」
「はーい。夕飯なーに?」
「野菜炒め」
「卵は?」
「明日の弁当用だっての」
「……デザートは?」
「ねぇよ!」
積極的に買い物袋を持ってくれることはありがたいが、すべては食事のためだという思慮が透けて見えている。案の定、デザートの不用意を告げた瞬間に、ひかりは不貞腐れた顔になった。
まだその論争を繰り返すつもりなのかと、しつこさに辟易する。
「ていうかお前、またネクタイやっただろ」
「あれ?」
「気付いてなかったのか……」
新田の観察眼のほうが上だなんて、知りたくもなかった情報だ。
「えー、だって似てるし」
「ストライプの色が違うだろ。ていうかそっちリボンあるんだから、換えろよ」
「やだよ。リボンなんか似合わないもん。もっと小さくて可愛い子がするものだよ」
「高校生の制服に小さい可愛い女の子を狙う意図があったらビックリするわ」
ひかりは背が高い。
女子にしては――ということもなく、男子に混じっても――というか、俺よりも数センチ目線が上にある。
大丈夫だ、俺はまだ伸びる。
ともかく、長身の上に大食いで大雑把。どうやらひかりは、そんな自分が女性らしいものを身に着けることに消極的でいるらしいのだ。気に病んでいるのか、事実として受け止めているだけなのかは分からない。だがその頑なさは、それとなしに引っかかった。
制服のジャケットを押し上げる大きな二つの塊がどうしようもなく女の子なのだけれど、それはそれらしい。
分からん。
「それにしても買い過ぎじゃない?」
「お前のせいだろ。米買ったから多く見えるだけ」
「ご飯はないと困る」
「……米があればそれでいいの間違いじゃないのか」
「そんなことないもん!」
否定したところで、説得力は皆無だった。
流し目で一瞥すれば、ひかりは不服そうにそっぽを向いている。なんとも誤魔化し方が下手くそだ。
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