始業前の学校にて 5
丁度信号に引っかかり、膝に手を突いた菜々美の手の中で、聞いたことのある音が聞こえた。
「あ――っ」
放課後にも聞いた音だ。
――じゃあ、わたしのクッキーと交換しようよ。それなら、
「
忘れないと思っていた……。それがあっけなく砕ける。走っている最中、無我夢中でもがいて、それで――。
「――ごめんなさい」
その後の記憶は殆ど無い、思い出してしまうと、昔の記憶も共に思い出してしまうから、思い出そうともしない。ただ、ここねと交換したクッキーを砕いてしまったという罪悪感が残っただけだった。
翌日、怯えるように学校へ向かった菜々美。あの高校は、
そして、学校へ来る時間が早いこともあり、生徒の数はまばらで、校内はまだ静かだ。
相変わらず
「おはよう、
「あっ……おは……よう」
どうやら、今日はここねが一番乗りのようだ。
朝から笑顔を向けてくれるここねに、目を合わせることができない菜々美は席へ着く。
このままチャイムが鳴ればよかったのだが、まだ始業には早い。不思議に思ったここねが菜々美の席へやって来る。
「大丈夫? 体調悪いの?」
恐らくここねは本気で心配してくれているのだろう。
「ええ……ごめんなさい」
そのせいか、全くの無意識で口を衝いて出た謝罪の言葉。
「え⁉ どうしたの?」
いきなりのことでなにがなんだか分からないここねが手をわたわたと動かす。
自分の言った言葉を自覚したが、元々謝るつもりだったため、丁度いいと思った菜々美がここねに頭を下げる。
「昨日のクッキー……砕いてしまったの。ごめんなさい」
「あっ、そうなんだあ」
あまりにもあっさりとしたここねの言葉に、菜々美は虚を突かれてしまう。
「え?」
こんなにあっさりしているものなのか? ここねの表情を見ても、どこか安心している表情だ。てっきり幻滅されるのかと思っていた。
「柏木さんになにかあったのかなって思ったんだあ」
「でも……芹澤さんのクッキーを砕いてしまったのよ……?」
「あー確かに、なにかあったんだから砕いちゃったんだよね。 ううーん、じゃあなにかあったってことだよねえ……?」
前の席に座って腕を組んで考え込むここね。
なにも無ければクッキーは砕けなかったはずで、砕けたということは、菜々美になにかがあったということだ。
だけどここねには考えても分からない。もしや、と思うことはあったが、すぐにその考えを捨てる。
「うぅ……分からない……」
ガックリと肩を落とすここねである。
菜々美はどこまで言うべきか悩んだ。あまり深く言い過ぎてもここねに引かれてしまうかもしれないし、困らせてしまうかもしれない。だけどここねになら、少しぐらい話しても大丈夫だとも思った。
「それは――」
だけどその先を言おうとしても口が動かない。頭では分かって、言えるはずなのだが、心がそれを拒否する。心の奥底にある思い出したくない記憶も同時に浮かび上がってしまう。
「――大丈夫よ、なんでもないわ」
「柏木さんがそういうんだったら……」
ここねは渋々と言った様子だが仕方がない。クッキーを砕いてしまったことに関しては救われたのだ、それと、心配してくれた優しさには感謝を伝えねばならない。
「ありがとう」
その言葉を聞いたここねは、春の朝にぴったりな朗らかな笑みを浮かべるのだった。
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