第47話

 文見は全力疾走した。

 颯爽とガードレールを跳び越え、階段を駆け下りる。

 レインの時計をしてるのだから、もはや自分はレイン。そんな気持ちで、ヒーローのように文見は走った。

 息が切れ、心が折れそうになっても、時計を励みに、ひたすら走り続ける。

 ……だが人間はゲームキャラのように速く走れないし、ずっと走り続けることはできない。

 現実は甘くなく、結局、スタジオには20分の遅刻だった。


「す……すみま……せん。遅く……なって……」

「あはは……。すごいですね……」


 汗びっしょりで、頭から水をかぶったようになっている。


「事情は聞いてますよ。脚本チェックする時間欲しかったので、ちょうどよかったです」


 そこには爽やかな笑顔をした男性がいた。

 江端孝史。

 メインキャラである華厳を担当する声優である。

 40歳を超えたベテランであり、超人気声優だが、軽く10歳は若く見える。気取らない笑顔は疲れ果てた文見の心身を癒してくれる。


「あ、ありがと……ございます!!」


 人目見ただけですごい人だと分かる。

 これまでに会ってきた声優とはまるでオーラが違う。顔も人柄もすばらしく、聖人君子かと思う人格者。

 今が戦国時代ならば、この人のために、命を投げ出してお仕えする武将もいるかもしれない。


「急ぎなんでしたっけ? 大丈夫ですよ。僕、仕事早いんで」


 江端は無邪気に言う。

 大人がそんなセリフを言うのはびっくりしてしまうが、とても似合っていて、可愛らしくも感じる。


「かっこいい……」


 思わず口に出ていた。

 それは人を安心させようと思って出た気休めではない。本当にそう思って言った言葉に思えたからだった。

 言われ慣れているのか、江端はふふっと微笑した。

 そうして、文見の汗が引く前に収録は開始される。

 宣言したように速かった。一字一句間違えることなく、完璧な演技をしてみせる。

 文見は江端が一言しゃべるたびにうっとりして意識が飛びそうになるのを押さえるのに必死だった。

 収録したデータは順次、会社に送信した。これにはスタジオのエンジニアには頭が上がらない。


「これで一章分は送れた。あとは八幡さん頼んます……」


 ユーザーが一章をクリアするのに五時間はかかる。これさえ組み込めれば、最低限の品質は保証できるはずだった。

 リリースまであと一時間。それが世に出るかは会社にいる八幡に託すしかなかった。

 江端の収録は順調に進んだ。

 本日四時間確保していて、用意していた脚本をすべて収録するのは難しいと思われていたが、このままいけばいけそうだった。

 無理に今回撮り終える必要はないが、次は二ヶ月後なのでできるだけ今日撮っておきたかった。


「2時になる……」


 ゲームがちゃんとリリースできるか不安だが、文見の仕事は音声収録。今すぐスマホを開いてゲームが起動するか確かめたいし、ユーザーの反応を見たい。

 でも素晴らしい演技を続けてくれる江端を前にそんなことはできない。


「きっと大丈夫。あとは仲間がなんとかしてくれる……」


 レインがゲーム中に言っていた自分を言い聞かせ、文見は収録に集中する。

 




 「ヒロイックリメインズ」の初日は上々だった。

 「エンゲージケージ」の会社の新作ということで期待を受けていて、広報的にもばんばん広告を打ったことで、多くのユーザーが遊んでくれた。

 だが、アクセスが集中しすぎてサーバーダウン、数時間プレイできない事態になってしまった。ストアの評価欄には「つながりません」「ゲームさせる気あるのか?」と酷評が埋まる。

 しかし、社長や社員たちはこれに動じることはなかった。

 トップクラスの人気ゲームの立ち上がりはだいたいこんなものだからだ。ユーザーが多すぎて困っちゃうという現象になる。

 ある程度、それでユーザーは失ってしまうが、アクセス過多のサーバーダウンは話題になり、世に「ヒロイックリメインズ」のリリースを知らせる効果が生まれるのだ。

 華厳の音声はなんとか一章分だけ乗せることができた。ヘビーユーザーはすぐにこれに気づいてきついコメントを出したが、そこまでプレイするユーザーはあまりいないし、サーバーダウンのコメントに埋もれてあまり目立たなかった。

 キャラやシナリオは大好評だった。話が長いというコメントはあったが、基本的に賞賛の言葉ばかりで、課金を牽引しているようだった。

 バトルもかなり評判がよかった。サクサクとした爽快感と戦略性が両立してあって、中毒性がある。これはさすが戦闘班の生駒の成果だろう。チーム内でダメ出しを出し続け、妥協せずに面白さを追求していた。もちろんチームメンバーには恨まれていたが、本人はまったく引かなかった。


「誰もがリリースに間に合うわけがないと思っていたと思う。スケジュール前倒しという、私のわがままに付き合わせてしまって申し訳なかった。しかし、みんなのおかげで無事、『ヒロクリ』をリリースできた。これは奇跡ともいえるが、99%みんなの努力の成果だ。これには必ず報いたい。ありがとうございました!」


 文見が音声収録から帰ってきて、サーバーの状況も落ち着いた夕方六時、社長の天ヶ瀬は全社員にそんなことを言った。

 これまで社長に煮湯を飲まされて続けてきた社員も多いので、社長の演説には警戒していたが、これには涙する者も少なくなかった。

 だが油断できないことは皆知っている。想定より早くリリースするために、おざなりにしていたことがいっぱいあるのだ。

 プレイすればするほど粗は目立ってくるし、プレイできるところがなくなっていく。

 すぐに次のアップデートの準備に取り掛からないといけない。


「……雨降って時固まる。今日だけはゆっくり寝させて!」


 文見はそのまま定時で上がると、汗まみれの服のままベッドにダイブしていた。

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