第46話
カバンには大量の紙束。脚本の電子化を声優事務所に勧められたが、対応の時間がなくて諦めたことを今さら悔いた。
重い荷物を抱えてのダッシュで、一瞬にして汗だくになってしまう。
「はあ、はあ、はあ……」
力尽きて日陰に座り込む。
日頃の運動不足と寝不足がたたって、すぐに動けなくなってしまった。
汗は出ているのに全然体温が下がらない。体はどんどんほてって重くなっていく。
「早く……行かないと……」
クライアントである自分がスタジオに到着しないと収録が開始されない。少しでも遅れたら命取りになる。
なんとか立ち上がるものの、足はがくがくと震えてまともに歩けない。
一歩踏み出すも、目の前が暗くなってくる。
「文見? 何やってんの?」
真横に車が止まり、誰かが話しかけてきた。その声はよく知っていた。
「道成!?」
八尾道成が明らかに社用車っぽい白のセダンに乗っていた。
側面には有名電機メーカーのログがある。
「送って!」
文見は八尾の許可を得る前に助手席のドアを開ける。
道成とは前に喧嘩してから連絡を取っていなかった。本当なら気まずい再会なのだが、文見には助けの船にしか見えなかった。
「おい、どうしたんだよ?」
「出して! すぐ! 東京タワー!」
「東京タワー?」
「いいから早く!」
「あ、ああ……」
八尾は意味の分からないまま車を出す。
「で、どこに行けばいいんだ?」
「東京タワー」
「登んの?」
「登らない」
「じゃあ何すんの?」
「音声収録」
「は?」
収録開始の10時まであと20分。車ならばぎりぎり間に合うかもしれない。
極度のストレスで、文見は過敏なまでにイライラしていた。ちゃんと返事することができず、片言になってしまう。
目を怒らせ、「こっちはいっぱいいっぱいなんだ。悟れ、馬鹿野郎!」と思っている。
「東京タワー。近くのスタジオ」
「先にそれを言えよ……。東京タワーから危険物を抱えたトラックを探すみたいな気迫だったぞ」
道成はペットボトルを文見に渡す。
ぶんどるようにして受け取り、文見は一気に飲み干した。
それが飲みかけだったのは気に留めなかった。
文見は大きく息を吐き、ようやく人心地つく。そこでようやく、無礼をし続けたことに理解した。
「……ごめん、急に」
「別にいいって。なんかやばいんだろ?」
「道成は仕事?」
「そう、外回り中」
「営業に戻ったんだ!?」
そういえば、道成はスーツ姿だった。
去年、道成は秋葉原の家電量販店で販売員として働いていた。会社の研修の一環らしいが、道成は出世コースから外されたのだと嘆く。文見はかつての恋人である道成がくよくよしているのが許せず、暴言を吐いてしまった。
「あのときはほんとごめん……。道成の気持ちも知らずに」
「いや、こっちが悪かった。かっこ悪いとこ見せちまったな。あのあと反省してちゃんとやるようにしたんだ。派遣さんとも仲良しになったし、上司ともやりたいことを話した。そしたら、毎日が楽しくなったよ。ほんと気持ち次第だな」
「そうなんだ。よかった」
「店員も面白かったけど、こうして営業に戻れたのが一番嬉しいけどな!」
道成は大袈裟に笑う。
どうやらいつもの道成のようで文見はほっとする。
「まあ、全部お前のおかげだな。お前がああ言ってくれたから、心を入れ替えられたんだ」
「ええっ!? あたしは別に……勝手なことを言っただけだし……」
思わぬ不意打ちに真っ赤になってしまう。
せっかく車の冷房で体温が下がったばかりだというのに。
「それで時間やばいのか?」
「もうあと10分しかない」
「おいおい。そりゃ間に合わないって。見ろよ、この渋滞」
道路は車がどんどん増えていき、ほとんど流れがなかった。山手線の運休が長引き、皆、車での移動にシフトしたのだ。
「もう降りて走る!」
「やめろ! 何キロあると思ってんだよ!」
文見はドアを開けようとしてストップする。少しは車で距離を稼いだとはいえ、自分の足ではいつになっても辿りつかないだろう。また暑さで動けなくなるのが落ちだ。
「なんとかして!」
「なんとかって……。別に俺は神様でもないし、お前の恋人じゃないぞ」
「うう……」
そんなことは分かっているが、恥ずかしい姿を見せてでも、この窮地を乗り越えたい。仕事を成し遂げるために、みんなで作ったゲームを完成させるために、自分はここにいるのだから。
「……ああ、分かったよ。ここは汚名返上のチャンスだもんな。かっこいいところ見せなきゃ」
「それでこそ道成!」
道成はハンドルを切って脇道に逸れた。
このあたりの地理には明るいようで、車通りの少ない道をカーナビを見ることなく進んでいく。
そしてだんだん東京タワーが大きくなっていった。
スカイツリーが東京のシンボルになって久しいが、東京タワーはまだ東京で働くサラリーマンを見守ってくれている。
「くそっ、つかまった!」
なんとか渋滞を避けて移動していたが、前後を車に挟まれ、身動きが取れなくなってしまう。
「あと5分、もうちょっとなのに……」
「ダメだ。あとは走れ!」
「走れって……」
「諦めるなよ。なんでも気持ち次第なんだろ!」
「そうだけど……」
諦めたくはない。でも物理的に不可能なものは不可能なのだ。
なんとか可能性をたぐりよせてここまで来たが、ここが終着点のようだ。はじめから壊滅的で絶望的な状況だった。ここまで来られただけでも十分よくやった。
「これ持ってけ」
道成は腕時計を外して文見に渡す。
「いらないって。スマホある」
「よく見ろ」
「え?」
透き通ったブルーを基調とした綺麗で繊細な時計だった。どちらかというと女性的なデザインなので、言っては悪いが道成には似合わない。
文見は文字盤に書かれた文字に気づく。
櫛風沐雨(しっぷうもくう)と難しい漢字が刻まれている。
「100個限定のドラファンコラボ!?」
ドラスティックファンタジーのキャラであるレインをイメージした数量限定の腕時計であった。
櫛風沐雨とは、風で髪をすき、雨で体を洗うという意味で、風雨にさらされ苦労するこという。苦労人であるレインを示す標語である。
なんとなくコラボした安っぽいものではなく、一流メーカーがしっかりデザインした高級品である。
文見も欲しかったものだ。買おうとは思っていたが値段があまりにも高すぎたので、買うか悩んでいるうちに予約が締め切られてしまった。
好きなゲームであり、好きなキャラの時計なのだが、10万円はあまりにも高すぎた。
「なんで持ってるの!?」
道成がドラファンにはまったという話は聞いていたが、軽い気持ちで買えるものではない。
「うるせえ、勝手に持ってけ」
道成が投げやりに言うので、文見の頭はハテナマークでいっぱいになる。
「お前のレインはこんなところでグダグダ言わないだろ」
「!?」
文見は時計を腕につける。
メタルバンドなので調整ができず、ちょっと緩い。
「雨が降らねば虹は出ない……か。ありがと、行ってくる!」
文見はサイドミラーを確認して車のドアを開ける。
「負けるなよ」
「誰に言っている。私は雨、降りたいときに降り、何者にも御せん」
ゲーム中で使われたセリフをやりとりし、文見は走り出した。
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