第45話

 結局、事務所から連絡はなかった。

 そして今日は7月27日。「ヒロイックリメインズ」のリリース日である。

 社長に怒られて以来、生きている感じしなかった。

 同僚は文見を責めなかったが、心の中ではもちろん怒っている。

 主役の声が入っていないゲームが本日の14時にリリースされてしまう。そこに批判が集まるのは必至だからだ。

 今日の14時公開予定で、ノベルティアイテムの社員たちはその瞬間を会社で、期待と不安多めで待ちわびている。

 ゲームが完成したらほとんどの人はやることがない。あとはサーバー担当の仕事である。みんなスマホやパソコンで、ユーザーの言動を見つつ待機している。

 だがそのとき、文見は走っていた。


「はあ、はあ、はあ……」


 炎天下の猛ダッシュで汗まみれ。息を切らし、今にも死にそうな顔である。





 遡ること一時間前。

 出社したばかりの文見のもとに電話が入った。


「ノベルティアイテム、小椋です……」


 消え入りそうな声で文見は電話に出た。

 一方、相手は真逆で底抜けに明るい声。


「小椋さん! 喜んでください、江端のスケジュール取れましたよ!!」


 名前を名乗らなかったが、相手は声優事務所の担当者だった。


「はあ……いつですか?」


 喜ぶところなのかもしれないが、今さら音声収録の日程が決まってもどうしようもない。もうゲームには入らないのだ。


「今日朝10時です! 一時間後です。これがダメなら次は二ヶ月先ですよ!」


 「ヒロイックリメインズ」のリリースは本日14時。収録を開始して4時間後にゲームが始まってしまう。

 華厳のセリフ量はキャラの中で一番多い。4時間で取り切れるかも怪しかった。


「江端はめっちゃ演技うまいんですぐ終わりますよ」

「い、いえ……あの、撮ってもゲームに乗らないんじゃ意味ないんですけど……」

「でも撮るしかないですよね? 次は二ヶ月後ですし」

「そりゃまあ……」

「いやあ、小椋さんラッキーだなあ。他の仕事が急に空いちゃって、本人もスタジオもそのまま押さえてあるんで、今ならすぐ撮れますよ」

「……分かりました、これから向かいます」


 文見はもやもやした気持ちで電話を切る。

 不幸中の幸いではあるだろう。当日には間に合わないけれど、来週には音声を追加できるかもしれない。

 文見が慌ててカバンに脚本を突っ込んでいると、机から何かが落ちた。

 それはレインのアクリルスタンドだった。


「やまない雨はない、か……」


 絶望という暗雲の中に希望の一光が指した気がした。

 文見は立ち上がると、社長席までダッシュする。


「これから収録いってきます!」

「あ、ああ……」


 文見の勢いに天ヶ瀬は圧倒されてしまう。


「それと! 撮った音声をすぐゲームに入れられませんか!?」

「すぐに……?」


 文見は思いついた案を説明する。

 収録したものから次々に会社に音声データを送って、ゲームに組み込んでもらう。これなら、ぎりぎりリリースに間に合うかもしれなかった。

 天ヶ瀬は村野や八幡を呼び出して相談する。


「リスクが高すぎないか? 不具合でゲームができなかったらシャレにならない」


 社長は否定的であるが、八幡が支援砲撃してくれた。


「確かに組み込み確認をする余裕はありません。しかし、データがあればすぐに組み込んでリリースすることは可能です」

「うーん……。八幡がそう言うならやってみるか……? 勝算は?」

「音声さえあれば8割ぐらいかと」

「そうか……。だが収録は間に合うのか?」


 音声さえあれば。

 これは文見の責任の重さを指す言葉で、文見はびくっとしてしまう。

 正直、間に合うか分からない。声や演技がキャラに合っているか確認して、それから本番に入るから、それなりに時間がかかってします。

 けれど、ここで怖じるわけにはいかない。


「だ、大丈夫かと……」

「江端だっけ?」


 八幡が文見に問う。


「はい、華厳役の江端さんです。いきなりスケジュールが空いたようで」

「ふむ……ならなんとかなるか」


 と、八幡がうなずく。


「……よし。他に打てる手はない。それに賭けよう」


 天ヶ瀬は決してリスクを取るタイプではない。だがクリエイターとして、ゲームとして主役の声がないのはやはり認められなかったのだ。


「頼んだぞ、小椋。お前にかかっている」

「やり遂げてみせます! 天地神明に誓って!」


 もはや覚悟は決まっていた。

 文見は席に戻り、カバンを掴む。


「ちょっと出かけてくる」

「ああ、ちょっと待ってください!」

「ごめん、時間ない!」


 文見は門真の言うことを無視して、オフィスから飛び出していった。


「ああ……。人身事故で電車止まってるんですけど……」


 駅について山手線が止まっているのに気付いた。

 タクシーに乗ろうとしたが、タクシー乗り場には行列ができていた。

 電車が動いていないのは知っていれば、社長の車に乗せてもらうこともできたかもしれない。


「待ってる暇があれば隣駅まで走るか……」


 少しでもスタジオに近づいたほうがいい。タクシーなら隣駅にもいるはず。

 こうして文見は当日の音声収録に挑むことになり、真夏の秋葉原を全力疾走することになる。

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