12章 リリース
第44話
「ちょちょちょ、ちょっと待ってください! 明日の収録キャンセルって? 困るんですけど! なんとかならないんですか!?」
「すみません、江端孝史(えばたこうじ)が体調を崩してしまって」
ゲームのリリースまで二週間前。それは声優事務所からの連絡だった。
江端は「ヒロイックリメインズ」の主人公の英結である「華厳」の声優だ。
声優界トップクラスの人気声優で、有名なアニメに必ず出ていると言われるほどの売れっ子である。
スケジュールを押さえるのはかなり困難だったが、文見が先に押さえる判断をしたこともあってなんとか収録にこぎ着けていた。だが、ここに来て体調不良によるキャンセル。
声優も俳優であり、人間なので、体調が悪くてはお芝居ができない。こういうときは後日改めて収録するしかなかった。
「体調治ったらすぐ押さえてください!」
「それはそうですけど、他の仕事もキャンセルしているので、だいぶあとになっちゃうかもしれません」
「そこをなんとか!」
「なんとかと言われましても……」
人気声優は分刻みで仕事をしている。一つ収録したらすぐ移動して、別のスタジオで収録する。それを一日で何回もやることになる。
一日休むだけ何件もキャンセルすることになるので、どんどん仕事が溜まっていくのだ。復帰後はそれを消化するためさらに忙しくなるので、予定が取れなくなってしまう。
「お願いします、本当に! あたしたちの命がかかってるんです!」
電話の前で何度も頭を下げたが、それが伝わるわけもなく、明確な約束はしてもらえなかった。
「終わった……。本当に終わった……」
急に体から力が抜けて、ぐったりしてしまう。
華厳はメインキャラの中でもトップクラスに重要なキャラだ。主人公、ヒロインのメイ、それに次ぐ。華厳がいなければ、ゲームとしてシナリオとして成立しないといえる。
社長が納得してくれるだろうか。そして八幡の気遣いを無駄にしてしまった。
ゲームのリリース延期に期待はできないだろう。各パート、リリース時に出すものを少なくすることで対応した。登場するキャラやシナリオは少ないし、未実装の成長システムもあるし、期間限定イベントはしばらくやらないことにしてある。
しかし、メインキャラの声がないのは許されない。でも次にいつ収録ができるか分からない以上、文見に打てる手はない。
「どうしてくれるんだ! できると言ったじゃないか!」
社長に報告すると当然怒られた。
これまで声を荒らげて怒鳴ることはなかったが、「リリース直前にやっぱ無理でした」と言われたら、さすがの天ヶ瀬も叫んでしまったのだった。
「も、申し訳ありません……」
「謝ってもどうにもならない。これをどうする気だ!」
「り、リリースを延期するか、恥を承知の上で、華厳は音声なしで世に出すしか……」
「何だと……? みんながこれまで死ぬ気で頑張ってきたゲームだぞ! それはお前も知ってるだろ? なのに延期? お前の失態で、みんなの苦労を無駄にするのか!」
「申し訳ありません……」
体を折り曲げて謝るしかできることがなかった。
許してくれるなら土下座してもいい。
文見が何も言わず、ただ頭を下げ続けていると、「もういい」と言い、腹心の村野を連れて外に出て行ってしまった。
文見はどうしようもなく、ただ社長席の前で呆然と頭を下げ続けるしかなかった。
なんて惨めな姿だろうか。全社員の視線が集まっているのが分かる。情けなくて涙が出てくる。
その様子はあまりに気の毒で、誰も声をかけられなかった。
このまま泣き続けているわけにはいかないけれど、足が動かなかった。頭が真っ白になり、そこに罪悪感がどんどん侵食していく。
全部自分が悪い。自分のせいでみんなに迷惑をかけてしまった。どうすれば許してもらえるだろうか。
「見せものじゃねえぞ!!」
しーんとした空気を切り裂く声。
それは木津だった。
つかつかと歩いて社長席のほうに向かっていく。そして立ちすくんだままの文見の手を取る。
「観月……」
「ほら」
木津は強引に手を引き、外へと連れ出し、女子トイレに文見を連れていく。
「どうしよう……。あたし、あたし……。みんなのゲームを……」
「あんたのせいじゃない!」
「どうしようなくて……」
「そう、どうしようもない。だから、あんたが負う必要はないんだよ」
「でも、でも……」
「でもじゃない! 泣くな!」
「ひっ!?」
木津は突然、文見の頭を掴んで洗面台の洗面ボウルに押しやる。するとセンサーが感知して水が流れ出した。
「や、やめてー!! がふっ……」
水が文見の頭に流れ出して、あっという間にぐっしょりと濡らしてしまう。
やっと木津が放してくれ、頭を上げるが、水がぽたぽたと垂れ落ちて、服や床を濡らしてしまう。
「なにすんのよ!」
文見は思わず、木津に掴みかかってしまう。
急に水攻めに遭い、死ぬかもしれないという恐怖を味わったのだから無理もない。
「ふふっ、元気になったわね」
「元気じゃないよ!」
不敵に笑う木津が何をしたかったかすぐに理解して、すぐに手を放す。
「もう……」
犬のように首を振って、濡れた髪から水をはらう。
髪はぐしょぐしょで服もびちょびちょ。ちょっと前に同じようなことになったのを思い出す。
「似合ってるよ」
「似合ってない!」
「似合ってるって。文見が好きなキャラがいつも言ってるでしょ。えっと、なんだっけ」
「やまない雨はないから。覚えてないなら言わないで!」
「そう、そうそれ。今、雨に濡られて犬のように惨めな姿でも、いつか必ず晴れて、誇れる日が来るわ」
「惨めって……。そうなんだけど……」
ひどい言いようだけど、元気づけてくれようとしての冗談なのでそんなに悪い気はしない。
「前にも言ったけど、別に文見が責任を負う必要はないわ。全部社長の責任」
「うん……」
「まあ、譲歩するなら社長も人間だから怒ることもあるわ。でも、あれは責任放棄に近い。だって、最終的な責任は社長が負うものだから。下っ端いじめても何の意味もない」
「そうなんだけど……」
木津の言うことはよく分かる。
社長の発言はひどい。自分の能力ではどうにもならないことを要求しているからだ。けれど、問題に対処仕切れなかった責任は、ちょっとは自分にあるように思えた。
「自分が悪いと思うのも感情の問題。社長が悪いと思うのも感情の問題。人間だから、失敗もするし、感情もうまく制御できないわ。でも、だからこそ利用もできる」
「うん?」
「事務所の人に差し入れでも持っていったらどう? 無駄かもしれないけど配慮はしてくれるかもね」
「それ、意味あるのかな……」
「さあね」
あまりにも投げやりな返答に文見はぽかんとしてしまう。
「ただ負けが確定するのを待ってるのは嫌でしょ?」
ゲームのリリースは延期にならなかった。メインキャラの華厳だけ音声なしのまま、7月にリリースされる。
意味があるとは思えなかったが、文見は木津の言う通り、事務所に差し入れのお菓子やら栄養ドリンクを大量に持ち混むことにした。
「レインなら、どんな絶望であっても嘆いたりしない。ちょっとでも前に進むはず……」
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