第42話
ぐう。
文見のお腹がなった。
別に空腹というわけではない。
ストレスでお腹が過敏になって、下しやすくなっているのだ。
ストレスの原因はいろいろあるが、音声収録の契約の件が一番大きかった。社長に黙って契約締結を進めるという禁じ手を使っているからだ。
何とか音声収録前に契約が成立すれば、「契約をしてから音声収録を開始する」という正式な手順に戻る。法律的には口約束も契約になるため問題はない。だが、文見が会社のプロセスを無視しているので、トラブルの原因になり得た。
文見は間に合え、間に合えと毎日祈っていた。
結果、ぎりぎり契約が間に合い、6月末、ようやく音声収録を開始できるようになった。
「脚本は持った?」
「はい! アクセント辞典もちゃんと入れました!」
門真はこの日のために生きてきたという顔で答える。
今日から音声収録が開始される。文見は門真を引き連れ、ついに念願の収録に臨むのだ。
二人ともはじめてのことなのでかなり浮かれていて、失敗の連続だった。
「いやぁ、さすがベテラン声優さん! すごいですね! 完璧ですよ!」
「今、セリフ間違ってましたけど、大丈夫ですか?」
文見が演技に感動していると、音響監督のツッコミを受ける。
「え、違ってました?」
「『ここであったが百年目、引導(いんどう)を渡してくれる』のところ、『印籠(いんろう)を渡す』になってましたよ」
「ええっ!?」
脚本と音声が一字一句間違っていないのか確認するのが、音声収録に立ち会うスタッフの最低限の仕事である。
その上で、声優の演技がシチュエーションに合っているかを確認し、間違っている場合は音響監督経由で演技を直してもらう。
文見のお腹がごうっと大きな音を鳴らす。
音声収録はけっこう気を遣うのでストレスの連続。小さい腹の音はすでに環境音になっていた。
「小椋さんしっかりしてくださいよ」
「門真くんだって、女性声優のとき、何も聞いてなかったじゃない」
「聞いてましたよ。何度も頭の中で反芻してたから、何も言わなかっただけです」
そんな調子でメインキャラの声優を次々に収録していった。
ただ声優の演技を聞いているだけで簡単に思えるが、スタジオに一日中缶詰になるため、かなりしんどい仕事である。
ちゃんとセリフが合っているか、演技が合っているかを集中して聞いているのは疲れるし、肩も腰も凝ってしまうのだ。
しかも文見はシナリオリーダーなので、収録後に会社に戻って、組み上がった会話イベントがちゃんとなっているかを確認して、スクリプターに指示を出さないといけなかった。
そして翌日の脚本チェックをしなければいけない。家に戻る時間はないので、会社の仮眠室を利用して、翌朝スタジオに出かけていくのである。
ある日の深夜、文見はうとうとしながら明日収録予定の脚本を読み込んでいた。
文字だけを追っているとどうしても眠くなってしまう。
「いけない……寝そう……」
目をこすってから、エナジードリンクを一口飲む。
「うわああああっーー!!」
再び脚本に目を落としたところで、思わず奇声を上げてしまった。
「わあっ!? びっくりするじゃないですか! どうしたんです?」
「ちょっと! 脚本変わってるんだけど!」
脚本が以前に書いたものと内容が違っていたのだ。
「ああ、直しておきましたよ」
「直したじゃないよ! なんで急に書き換えたの!?」
「ダメでした?」
「ダメに決まってるでしょ!」
「でも、話があんまりよくなかったので直したほうがいいかなと」
またお腹が鳴る。
「こいつ、またやりやがった」と文見は思った。
「あのねえ……。もうシナリオは完成してるし、直していい時期じゃないの。ころころ変えられたら、他のパートも迷惑だよ」
「そうですけど……良くなってません?」
門真はあまり悪びれていない様子。
「昔の資料読ませてもらいましたけど、小椋さん、『リメインズエナジー』について書いてましたよね」
「没になったやつね、分かりにくいからって」
「やっぱリメインズエナジーの概念を入れたほうが深いと思うんですよ。なので入れさせてもらいました!」
門真は自慢げに笑う。
何と言い返せばいいのか分からず、文見は口をぱくぱくさせる。お腹の中のものが一気に出てしまわないかと怖くもなる。
急な脚本書き換えは絶対にやってはいけないことだ。しかもリメインズエナジーは没になっていて、話の根幹にも関わるからだいぶ修正が多くなる。
「でももう収録始まってるし、さらに直すなんてできないですよね。いやあ仕方ないなあ。このまま行くしかないですなあ」
そんなことを言われ、文見は戸惑うことしかない。
門真がこのようなおどけ方をするのは見たことがなかった。
「……もしかして、あたしのため?」
「え?」
「没になったけど……なんとかあとで組み込めないかと、未練がましく小さく『旧設定』と書いて残してあったのを見たんでしょ?」
文見はリメインズエナジーの話を入れたいと社長に何度も主張したが却下された。そのときはまだ気力があったので、反骨心でそんなことしていた。
今思えば恥ずかしい話であるが、井出からもらった資料を参考にしたメモでもあった。何かの機会に入れ込めるのでは、という淡い期待を残しておいたのだ。
「なに言ってるんですか。『別にあんたのためなんかじゃないんだからね』!」
「へ?」
「俺がいいと思ったから入れたんです。うぬぼれないでください」
門真はできもしないウインクをしてみせる。
「門真くん……」
誰にも断りを入れない脚本の修正など禁じ手すぎる。たとえば知らない間に修正され、えっちなセリフだったり暴言になっていたりしたら、現場で大混乱だ。
けれど今日のことで怒れないと文見は思う。
「次は直すときはちゃんと言ってね」
「はい!」
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