第32話

 八尾から夕飯のお誘いが来ていた。

 今日も門真を叱りつけ、その反動でダメージを受けていたので、文見は気分転換にと思って了承した。

 ご飯を食べて気力を回復し、夜の部に備えるのだ。

 六時になって会社を飛び出すと、それだけで元気になった気がする。

 今日は近くの定食屋に来ていた。なんてことはない、普段使いのお店。


「道成はもう上がり?」

「ああ。文見は残業?」

「うん、しばらくは忙しくて早く帰れないかなー」

「うわあ、ブラックだなあ」

「ふふ、そこまでじゃないけどね」


 身内で自分の会社はブラック企業だとふざけて言うことはあるが、実際そこまでひどい労働環境ではない。

 裁量労働制なので基本的に残業代は出ない。長い労働時間に対して給料が適正に払われているか疑問ではあるが、それは他のゲーム会社やクリエイティブな仕事と同じである。

 休日も代休ももらえているし、労働時間が法律や就業規則を越えて超過することはないように配慮してくれているので、さすがにブラック企業というのは言い過ぎである。

 もちろん上司に大きな声で怒鳴られたり、嫌なことを強要されたりもない。


「ほお、働き方改革で昔に比べるとよくなったみたいだな」

「うん。ベテランさんに聞くと、昔の業界はひどかったみたいだね。初任給の20万円で毎日10時まで働かされるんだって。深夜残業は10時からだからその前に帰されちゃうと、残業代ゼロ。毎日3時間残業で20日間……つまり60時間がただ働きになるから、アルバイトみたいな給料になるみたい」

「うわ、きっつー。みなし労働時間もないのか。ひどいな」

「それが許されてた時代なんだよ。好きでエンターテイメントの仕事してるんだから、給料安くても満足だろって」

「はぁー……。そう考えると俺たち恵まれてるな」


 それはやはり本当にそう思ってしまう。先達が積み上げてきた苦労や努力のおかげで、労働環境が少しずつよくなってきている。


「道成はどうなの? 今は販売員なんだっけ」

「全然よくない!」

「そうなんだ?」


 八尾が食い気味に言うので苦笑してしまう。


「なんでこんなところで働かされてるんだろ、って毎日思うんだよ」

「もともと営業なんだっけ? あたしも、研修で秋葉原のゲーム屋で働かせてもらったことある。いい経験にはなったけど、正直無駄だったかなって思った。うち、スマホゲーしかないからねー」

「電気屋によく、メーカーのロゴがついた服着てる店員いるだろ?」

「いるいる。なんか詳しそうな店員さん」

「それ。今やってるの。いろいろ経験してほしい、っていう会社の考えは分かるんだけど、ただの苦行になってるんだよ。若いときはとりあえず苦労しとけ、みたいな」

「分かるー。本職に関係ないもんね」

「今はだいぶよくなったけど、昔は電気屋がメーカーに販売員出せって要求してたらしいんだ。お前んところの商品置かせてやるんだから、タダで労働力出せって」

「え? タダで?」

「タダで。今でもタダなんだけど、昔は単純にタダで使える店員としてコキ使われたらしい。さすがに独占禁止法がどうたらで禁止されたけど」

「脅迫みたいなもん? 言い方アレだけど」

「そういうこと。メーカーは小売店に逆らえないから、労働力を提供せざるを得ないんだ。だからこうして俺は研修という名のタダ働きをさせられてるわけで。まあ、自分の会社から給料出てるけど」

「秋葉原で、業界の闇を毎日見させられていたとは……」


 メーカーの服を着ている人は、単純にそのメーカーの商品に詳しい人だと思っていた。だがそんな裏があるとは考えもしなかった。


「もっと闇が深いのは、その販売員にも種類があって、俺みたいに正社員もいれば、メーカーが雇った派遣社員もいるんだよ」

「うん? メーカーが販売員を雇ってるの? それっておかしくない? お店が雇えばいい話だよね」

「おかしいから脅迫だろ、違法だろって言われるわけ。でもそれは今も続いていて、メーカーが雇って、お店はそれをタダで商品説明係として利用できるんだ」

「うえー、変な世界……。お店が雇って正社員にしてあげればいいのに」

「正社員に登用される人もいるようだけど、その商品が好きで売り場にいたいって人も多いんだよ。たとえばカメラ好きの販売員で、お客さんもカメラが好きだから同じ趣味で会話できれば楽しいし、それが役に立つなら嬉しいってことだな」

「ははあ、なるほどな。それは分かるかも」

「お店の正社員になると、在庫管理や売り上げ目標とかあって大変だけど、彼らはそれがないから気楽なわけだ」


 好きなことを仕事にして、しかもおいしいとこ取りで楽しんでいる、ということのようだ。

 確かにうらやましくも感じる。自分も好きなことをやっているけど、責任と納期に追われて大変だ。


「んー。でも、道成は面白くないわけね?」


 それははじめから違和感として持っていた。

 八尾は相手を気遣うばかり、本当より楽しそうにしゃべったり、つらいことを隠したりする。だが仕事の話をする八尾は、正直面白そうではない。


「なんでバレた?」

「分かるよ。自分の会社、ブラックって思ってそう」

「ははあ、図星だ。文見には敵わないなー」

「なんだかなんだで、付き合……。長いからね」


 高校の三年間、恋人としてのお付き合いがある。「付き合い長い」と言おうと思ったが、今は恋人ではないので、言葉が混じってしまうのがちょっとためらわれた。

 八尾はこれまで元気よくしゃべっていたが、ため息をついて話し始める。


「はぁ……実はけっこう参っちゃってさ。営業としてこの会社入ったのに、いきなり秋葉原で店員って何やってんだろうと考えてしまうんだよ……。正直つまんない。小売りも大切だけど、俺はもっと規模の大きい販売やってんの。なんでこんなことさせられてんのかな。罰ゲームかよ……」


 これまで押さえていた感情が吐露される。きっと本音だ。

 八尾が落ち込んでる姿はほとんど見たことなかった。大きい体がいつもより小さく見える。


「会社にとっていらない人間と思われてるのかな。ちょっと成績悪いこともあったし、口答えして嫌われたのかもしれない。でもこんな目に遭わせなくてもいいよな……」

「道成……」


 その苦労は分かるところがある。

 今は認められてシナリオをやらせてもらっているが、それまではつまらない単純作業の繰り返しだった。一生ずっとこのままなのかと不安になったものだ。給料をもらっているんだからしょうがないと、何も言えず耐えるしかなかった。


「まさか仕事やめるの?」


 愚痴の内容が同期の佐々里と似ていた。

 現状を疑い始めると止まらない。自分にこの会社は合わないと思ってしまうのだ。


「やめたい。……でもやめない。やめたらせっかく入った会社がもったないし、次いいところ入れるか分からないからな」

「そうだよね。希望の会社入ったなら残ったほうがいいよ。きっとつらいのも今だけで、また営業戻れるよ」

「毎日それを願ってるけど、どうだかな……。ほんと派遣の人がうらやましく思える。好きなことだけやれんのはいいよなー」


 その発言を聞いて、文見は眉をひそめた。

 八尾はうらやましいと言ったが、ニュアンスとして馬鹿にしている感じもあったからだ。


「派遣の人が逃げてるように見えるの?」

「逃げてるだろ。仕事でもまったく責任抱えず、好き勝手やってるし、他の仕事に飛ばされるって危機感もないしな。自分の人生どう思ってんだろ。こっちは将来が不安でいつも悩んでるのに」

「ふーん」


 八尾らしくない。なんだか不快だった。

 木津じゃないが、「責任抱えるのが嫌ならやめればいいのに」と思ってしまう。

 有名電機メーカーの正社員というポジションが惜しいだけなんじゃないか。派遣社員と同じ仕事をさせられて不満なのかもしれないが、その人を批判する必要はない。

 人を悪く言うような人じゃなかったのに……。

 文見は正直失望していた。


「文見はやめたいと思ったことはないのか?」

「そりゃつらいことはあるけど、ないね」

「いいなあ。好きなことやってんだな」

「は?」


 思わず声が出た。

 これにはカチンと来てしまったのだ。

 ゲーム会社の実情を知らない人によく言われることではあるが、「一日中ゲームやってんでしょ? ずるい!」のようなことを八尾に言われるのは非常に不愉快だった。


「何でも気持ち次第だよ。嫌だと思っているうちは何だって嫌になる」

「それは恵まれてるから言えるんだ。一回落とされてみろよ、生きているのが嫌になるぞ」

「落ちてる? まだ正社員でしょ。何も変わらないじゃない。今はダメでも、きっとよくなるよ」

「気楽でいいな。俺もゲーム会社受ければよかったわ」


 がたっ。

 文見は勢いよく席を立った。


「ごめん、帰るね」


 さすがに我慢できなくなった。

 これ以上、八尾と話していると暴言が出そうだ。


「おい、どうしたんだよ。飯、食ってけよ」

「ペットに餌あげるに忘れちゃった。すぐ帰らなきゃ」


 ただの嘘。ペットなんて飼っていない。

 正確には「仕事終わってないから、会社に戻るね」だ。

 それはそもそも一番初めに伝えてあるので、なんの言い訳にもなってない。


「おい!」


 八尾の言葉をスルーしてお店を出た。

 注文したまま出てしまったので、定食屋の方には申し訳ない。きっと八尾が二食食べてくれるはず。

 なんだかイライラした。

 人はこうも変わってしまうのか。仕事環境はそこまで凶悪なのだろうか。

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