第20話

 文見は真っ白になった気分だった。


「とんでもないことになっちゃったな……」


 個室で一人、唖然として口が開いたままになってしまう。

 席に戻ってすぐにでも修正作業に入ったほうがいいのだろうが、立ち上がる気力が湧いてこない。

 これまでやってきたことが全部パーだ。4月の仕事を頼まれて、ゴールデンウイークの前後に資料を作成。それから二人と揉んで6月となっていた。約2ヶ月の作業期間だ。

 自分はいったい何をやってきたんだろう。社員に意見を求めるならもっと早く聞けばいいのに。ここまで作業してやり直しなんて効率が悪すぎる。

 綺麗にしたばかりの床に汚物をばらまかれたような気分だった。

 喪失感がひどい。


「ああ、全部やり直しだー」


 文見は背もたれによりかかり、足を投げ出して自嘲的に嘆く。

 言葉にすると一気に徒労感が出てくる。

 急に体がだるくなって力が入らなくなり、椅子から落ちそうになる。なんとか体を持ち直して机に突っ伏す。


「ああ……。終わった……。もうダメだ……」


 床が汚れるのは仕方ないけど、目の前で汚物なんてまかなくてもよかっただろうに。なんかの嫌がらせ? あたしの精神修行としてやらせてるの?

 ここでシナリオを修正しても、社長がかばってくれないことには、また修正になる気がする。

 何をしても無駄。また磨き直した床に汚物がまかれるのだ。


「はあ……。何やってんだろ、あたし……」


 急に泣きたくなってきた。というより、すでに涙が流れていた。

 不幸自慢をしたいわけではないが、自分はなんて不幸なんだろうと、周りに言って回りたくなる。

 自分の作ったものが、やってきたことがほとんど無駄になってしまった、というむなしさが蝕んでいる。けれど、ショックなのは他にもあった。

 まず、自分の無能さ。自分がもっといいものを書けていたら、こんなことにならず、すんなり解決していたかもしれない。

 次に、自分の不要さ。誰も求めていないお話を書いてしまった。自分のセンスでは誰も満足させることはできない。ここで修正したとしても、自分が書くだけつまらないものができてしまうのではないかと思ってしまう。

 久世なら「初めてやるんだからしょうがない」と慰めてくれるだろうが、そんなのは何の助けにもならない。素人の自分なんかが書いたから悪いんだと思うだけである。


「ああ、どうしよ……」


 このまま会議室で泣きながら突っ伏していたいが、誰かが入ってきたら大変だ。だからといって、涙をぬぐって普段の顔をして自分の席に戻るのもつらい。きっと久世が声をかけてくれるだろう。そしたらまた泣いてしまうかもしれない。

 ぎりぎりまで泣いていようか。もしかすると、誰も来ないかもしれない。いや、ものすごい幸運が訪れて、めちゃくちゃ優しいイケメンが苦労を分かってくれ助けてくれるかもしれない。いやいや、戻ってこない文見を心配して、社長が「やっぱ私が間違ってた。直さなくていい」と言ってくれるかもしれない。

 そんなわけの分からないことをグルグルと考えてしまう。

 そこでも「自分、何考えてんだ。重要なのはそこじゃないだろ」と自嘲したくなる。解決しないといけないこと、考えないといけないことは、変なチキンレースや少女漫画のような展開を妄想することではない。


「このまま透明になりたい……」


 誰かが会議室にやってくるのが嫌だ。席に戻ったら大幅修正しないといけないのが嫌だ。なんでみんな自分をいじめようとするんだろう。そんなものがなければいいのに、自分が透明だったらやり過ごせるのに。

 「エンゲジ」に透明化魔法あったな、と思う。しばらく敵からダメージを受けない魔法で、かなり重宝する。「エンゲジ」キャラになったら魔法を使えるかな。次のコスプレはやっぱ「エンゲジ」にしよう。今度はそんな考えが頭を回り始める。

 思考を変えようとするが、思い出したくないことをどんどん思い出してしまう。

 その中でも一番大きいのは、先日の社員からシナリオへの意見だ。偉そうに自分の書いたものに文句を言ってくるやつ。

 なんであんなことを言われなくちゃいけないんだろうと、自分の立場をまた嘆きたくなる。

 そして、「てめえの意見は間違ってんだよ」「これはこういうもんなんだ、シナリオ知らないのか?」「協力する気がないなら、黙っててください。仕事の邪魔です」と、頭の中で名前も知らない相手に次々に論破していった。

 無意味なのは分かってるが、ほんの少しだけすっきりする。

 脳内で論破しても自己満足にしかならない。現実で問題は解決しない。でも、シミュレーションは止まることなく、何度も何度も繰り返されてしまう。やめたいのにやめられなかった。

 頭はイライラで熱くなっていき、心はどんどん毛羽立っていく。

 おかしくなりそうだった。

 だるいし、吐き気がするし、胸もずきずきと痛いし、泣いた目もひりひりと痛い。

 さらに無駄に時間だけが経過して、自分の仕事時間を減らしている。仕事が終わらなければ帰れないから、会議室に籠城するだけ無駄なのだ。

 すべてが自分の敵だ。

 逃げ出したい。離れたい。解放されたい。

 このままでは堕ちてしまう。


「ダメだダメだダメだ……!」


 突然、文見は水の入ったペットボトルの蓋を開け、頭の上で逆さまにする。

 水がとくとくと流れ出て、文見の頭はびしょ濡れになってしまう。

 会議室の机も水浸しだ。

 文見はすぐに服の袖でぬぐって床の浸水は免れたが、今度は服が濡れてしまう。


「これでよし!」


 一般的に何がよしなのか分からないだろう。

 行動に出たときは「これでよし」と思った。どう見ても自分は水をかぶってしまった不運な人。決して、ひどいことを言われて、涙を流した哀れな人ではない。

 しかし、会議室を出た瞬間を誰かに見られてしまったら、会議室で何があったらびしょ濡れになるんだと不審がられてしまうだろう。自分で水をかぶる人はいないだろうから、誰かからかけられたのか。そしたら大問題だ。ひどいパワハラでも起きたと思われてしまう。

 水なんかぶっかけず、顔を覆って小走りにお手洗いにいけばよかったのだが、もはや後の祭り。

 でも、このアホなことをしているのが快感でもあった。

 惨めな状況になって惨めな格好になっている。でも心は負けてはいない。外面はダメでも、自身の内側にあるものは最高だ。よく分からないテンションが文見を前進させる。


(こういうゲームキャラいるよな)


 と文見は思った。

 逆境に決して動じない。それどころから面白いといって無謀な挑戦をしたくなる。でも負けない。意思の力がポテンシャルを引き出して、相手を圧倒してしまうのだ。

 文見は勢いよく会議室を飛び出す。

 今だけは青春真っ盛りのゲームキャラ。全部、突撃でなんとかする。

 すると、偶然前を通りかかった社員がいて「うおっ!?」と驚きの声を上げる。


「すみません、通りまーす!」


 できるだけ明るく元気な声で応え、社員の横をすり抜けてお手洗いへと向かう。

 社員も何が起きたんだろうとぽかんとするが、それ以上は何も関われなかった。関わってはいけないと思わせる凄みがあった。

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