ケース006 否認の病のウィズ
路上の片隅で小さな老人がいびきをかいている。
片手には酒瓶。近づいただけで酔っ払い特有の臭いが鼻をつく。
明らかに異常な光景だが、通行人は誰も彼を助けようとしない。外見が常人離れしているからだ。肌は黄色く、外見上は明らかに男であるにも関わらず、妊婦のように腹が膨れていた。
「ウィズさん。療養所を抜け出して、こんなところで何をしているんですか?」
療養所から脱走の連絡を受けて、すぐにここにきた。ここは昔ウィズさんが夫婦で住んでいた家の前だ。
奥さんが流行病で亡くなってから、ウィズさんは酒に溺れて依頼を受けなくなり、できた借金のせいで家を失った。だが、ウィズさんは酔うと決まってここに帰って来る。
「ん……んん……メア、布団を持ってきてくれ……」
肩を揺すると、寝言を返してくる。今日は少し肌寒い。今は昔の夢でも見ているのだろうか。
白髪なのか地の色なのか、伸び放題の脂まみれの薄い金髪が手にかかる。
「ウィズさん! 起きてください!」
どこの世界でも、生活保護のケースワーカーをやっていると、担当する中に数人はアルコール依存症の人がいるものだ。だからこういう症状は死ぬほど見てきた。
肌が黄色っぽくなっているのは「黄疸」という症状だし、腹が膨れているのは腹水が溜まっているからだろう。前の世界の医者なら、もっと詳しいことがわかるのだろうが、十中八九アルコール性の肝炎であろうことは素人でも予想できた。
「ん? ホンゴーか? 一緒に飲みに来たのか?」
目を開けて、開口一番が寝言。思わず頭をはたきそうになる。慣れているからちゃんと聞き取れるが、呂律は全く回っていない。
「違います。それより、なんで療養所を抜け出したんですか?」
「あの藪医者、酒やめろってうるさくてな。この腹もなおせねーのに偉そうに」
「そりゃ、その腹を治すには酒をやめなきゃいけないからですよ」
ウィズさんは起き上がろうともしない。いや、泥酔で起き上がれないのか。
「ちっ。またその話か。つまらんからもっと楽しい話をしろよ。あとそこの酒屋で酒買ってこい」
ウィズさんは生活費をすべて酒に使ってしまう。だから今の療養所を追い出されたら、食事もできないはずだ。行く先々でトラブルを起こすので、ほとんどの店や療養所が出禁となっており、この街ではこれ以上後がない。
「できませんね。それ以上飲んだら死にますよ」
「わからんやつだな。俺は酒が強いんだよ。若い頃はウワバミって呼ばれてたほどなんだ。それに、酒は百薬の長っていうだろうがよ」
アルコール依存症は、別名「否認の病」と言われている。患者はだいたい自身がアルコール依存症だと認めないからだ。延々と言い訳を繰り返し、酒をやめない。
「酒に強い人は、こんなところで酔いつぶれませんよ。今の自分の姿をしっかり見てください」
「偉そうに。お前に俺の何がわかるんだ」
無力感を感じながら、説得を続ける。こんなウィズさんも、昔は腕利きの斥候として活躍していたそうだ。トラブルメーカーで若干嫌われていた節はあったが、所属していたパーティのランクはA、本人もB級の冒険者だったらしい。
だが、酒量が増えてからは手足が震えるようになってしまった。斥候としては、隠密行動できなくなるのは致命的だ。
少し前にあった魔物の氾濫事件では、ギルドに苦情がたくさん入っていたし、斥候としてはもう役立たずになっているかもしれない。実際、一緒に依頼を受ける冒険者はもういなくなっている。
「とりあえず、立ってください。療養所に帰りますよ!」
肩を貸して立ち上がる。食事が不安定なせいか、腹以外は枯れ木の枝のように痩せていて、とても軽かった。
◆◇◆◇
「えっと。もう一回言ってもらっていいですか?」
翌朝、冒険者ギルドに出勤した僕が、早番の女子職員から受けた報告は、信じられないものだった。
「だから、あのバ……ウィズさんが療養所で暴れたんです。同室の患者を殺そうと短剣を持ち出して、取り押さえられて……その後すぐにお医者さんの一人を殴って、逃走しました」
頭を抱える。そんな事件を起こされたら、ウィズさんはもうあの療養所にはいられない。かといって、宿に泊まるお金はもう飲み潰しているはずだから、どこにも泊まれないだろう。
僕にも借金を申し込んで来たぐらいだから、もう友達もいないはず。
「足取りは?」
「療養所から知らせが入る前に、カウンターに保護費の前借に来ました。私が断ると、ゴブリン討伐を受託したようですが……」
ゴブリンというのは、だいたい十歳の子どもと同等ぐらいの力を持つ人型の魔物だ。石器を使う程度の知能があり、人間を避けずに襲ってくる。
討伐依頼は毎日あるので、それを受託したのだろう。
「衛兵隊は?」
「街から逃走したと判断して、追っ手を出したようです」
時すでに遅かった。街の外には魔物が跋扈している。ウィズさんはアルコール依存症で、アルコールが切れるとまともに身体を動かすことができない。
「ホンゴーさん、どうしますか?」
報告の間に、鼻をすする音が混じる。報告していくれている職員は冒険者の間では人気のある受付嬢で、アッシュブロンドの美しい髪が特徴の美人だ。
「緊急で捜索依頼をお願いします。予算は生活保護課からお願いします」
残念ながら、僕には森でウィズさんを捜索できるようなスキルはない。戦闘能力もE級冒険者とどっこいどっこいだろう。街の外だと言うのなら、僕には無理だ。
「よろしいのですか?」
少し潤んだ瞳で、にらむようなきつい視線を投げかけてくる。ウィズさんはそんなに嫌われていたのだろうか。まぁわからなくもないが。
「もちろんです。ただ、受けてもらえるかどうか」
冒険者ギルドには憲章と呼ばれるルールがある。「依頼選択の自由」というのもその一つで、依頼を受けるかどうかの判断は、最終的に本人に委ねられている。果たして人望が絶望的にないウィズさんの捜索を、受けてくれる人がいるかどうか。
「ありがとうございます。もう依頼票は用意してありますので、貼りだしておきますね」
彼女の指示で、すぐにカウンターの奥にあった依頼票の束が、ボードに貼り出された。あらかじめ用意してあるとは、優秀なことだ。
「メアリーさん! 衛兵隊に提出する報告書、手伝って!」
話が終わったと思ったのだろう。受付担当の職員が大声で彼女を呼んだ。
「は~い! すぐ行きます! ……それじゃホンゴーさん、また後で」
彼女はそれだけ言うと、カウンターに戻っていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます