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 ――いい? 奈々。


 パーテーションの奥に入って行ったきり、なかなか戻ってこない桐生さんを待ちながら、ぐるぐると所長への挨拶文を再確認していると、不意に昨夜のみっちゃんの注意事項がよみがえってきた。

 自分だって明日から研修先に配属だというに、寮室で滾々と諭してくれたそれ。注意事項。つまり、「なぜか知らないがうっかり特A事務所に配属されてしまったあたしがどう立ち居振舞うか」という話なのだけれど。


 ――この世界は、結局のところ、血筋がものを言うのよ。一般家庭出身のあたしたちからすれば残念な話だけれどね。次にものを言うのがライセンスランクよ。それはべつにいいわ。頑張ってランクを上げれば、あのクソ偉そうな旧家の奴らを見下してやれるもの。


 ……ちなみに、同期のみっちゃんは。あたしと同じく一般家庭の出でありながら、主席卒業者だった才女である。もうひとつちなみにであるけれど、鬼狩りの旧家の人間以外が主席を取ったのは、育成校開校以来の快挙でもあったらしい。


 それで、奈々。この前提を頭に置いた上で聞いて。あんたが配属された「紅屋」はね。

 はっきり言って、例外中の例外で、特例中の大特例よ。

 そう言い切ったみっちゃんの瞳は完全に据わっていた。


 特Aの事務所ってだけでアレだけど、中にいる人間がもっとまずいわ。同期の女子はやれ格好良いやら美形で羨ましいやら、あんたに集っていたけど。顏なんてはっきり言ってどうでもいいのよ。問題は、ふたりとも鬼狩りの血統の中でも最上位に位置する御三家の人間で、ライセンスランクも最上位の人間。つまり、この世界のトップに近い人間なのよ。

 それがどういうことかわかる? 奈々。あんたがろくでもないことをやらかして、臍を曲げさせてでもみなさい。あんたなんて簡単にこの世界から追い出されて、はい、終了、よ。


 はい、終了。なんともぞっとしない言葉に、あたしはぶるぶると頭を振った。いや、大丈夫。大丈夫。だって、桐生さんだって優しそうだったし、いい人そうだったし。それなら、その上に立つ所長だって、いい人であるはずだ。そうだ。そもそもとして、鬼狩りに悪い人なんていないはずだ。

 あたしはそう大きく言い聞かせた。人間なのだから、受話器を壊すことだってある……かも、しれない、し。


「フジコちゃん?」

「は、はい!」

「そんな緊張せんでもええから、荷物持って入っておいで」


 声を裏返らせて立ち上がったあたしに、桐生さんが苦笑を浮かべて手招いている。入る、ということは、ご対面。ご対面だ。バレないように深呼吸をして、鞄を手に「失礼します」と一礼する。

 足を踏み入れた事務スペースは、広くはないけれど落ち着いた色合いで統一されていて、綺麗なお役所、といった感じだった。感じといってしまったけれど、鬼狩りは特殊とは言え公務員扱いなので、正しい姿なのかもしれない。

 そんなことを考えつつ、失礼にならない程度にさっと室内を見渡す。スペースの大部分を占めているのは、二台ずつ向き合うかたちで置かれた事務机だ。壁際には大きなキャビネット棚がある。きっと、たくさん書類が入っているのだろうなぁと想像する。なにせ、受けた任務は数知れずと噂の特A事務所だ。


「フジコちゃんの席はここね。僕の前」

「あ、はい!」 

「荷物もそのあたりに置いておいてくれたらいいから」


 案内された事務机の上には真新しいノートパソコンが置いてあった。あたしのために準備してもらえたのだと思うと素直に嬉しい。ふへ、と緩みかけた頬が、続いた桐生さんの声ではっと固まる。


「それで、こちらが所長の蒼くんです」


 そう、だった。

 とりあえずと手荷物を足元に置いて、振り返る。つい、目先の喜びに心を奪われてしまっていたけれど、肝心の挨拶が、まだ済んでいなかったのだった。あたしの身体にまた一瞬で緊張が走る。


「その呼び方はやめろと言わなかったか?」


 書面に視線を落としたまま発せられた声は、静かではあるものの明らかに嫌そうだった。まぁ、でもそうだろうなぁ、とあたしも思ったのだけれど、当の桐生さんはどこ吹く風で。


「えー、なにをいまさら。蒼くんが嫌なんやったら変えてもええけど。例えばー……」

「もういい」


 ろくでもないことを言い出す前科があるのか、うんざりと言ったふうに切り捨てて、所長が顔を上げた。

 ……これが、あの受話器を握りつぶした、人?


「フジコちゃん?」

「あ、ええと。すみません! あの、今日からお世話になります。国立特殊防衛官育成高等専門学校第三十期生、ラッキー☆フジコです」


 勢いよく頭を下げた瞬間。所長の机の上の電話機の残骸が視界に留まってしまった。中の配線が激しく飛び出している……どころか、半分以上形状を留めてすらいない。


「よ、よろしくお願い致します!」


 怖い。なにこれ怖い。これが人間の握力で握り潰した成れの果てなの。そしてこれがよくあることなの。頭に過った疑念を振り払うべく腹の底から声を出す。結果として最敬礼のようになってしまった気がしてならない。スマートに挨拶しようだなんて夢のまた夢。

 とどのつまり、その瞬間、あたしは完全にビビっていた。


「所長の天野だ」


 声は静かなのに、やたらと凄みがある気がしてならない。ぎこちなく顔を上げて、唯一の取り柄と評される笑みを浮かべる。引きつっていたかもしれない。

 おまけに言うなら、取り柄と言っても、「可愛い」だとかではなく、「良く言えば癒し系で気が抜ける、悪く言えば間抜けで気が抜ける」という、それだけだ。

 視界から残骸を追いやって、ついでに記憶からも追いやるように努力して微笑みを固持する。


「……」


 つい十数分前。あたしの二つ名を聞いて笑わない人なんていないんだ、と。悲観的に思った自分を殴りたい。いっそ、失笑でもいいから、笑ってくれたらよかったのに。そう思うくらいには、所長は無表情だった。

 失礼だとは思うけれど、本当にこの人が所長なのか(というか、本当にあの残骸を生み出した人か)との疑心が湧いたほどの童顔なのに、居た堪れなくなる威圧感を感じるのはなんでなんだろう。


 ……特Aだからかな。


 もうその魔法の言葉ですべてをそういうことにしてしまいたい。


「桐生が言っていたかもしれないが」

「は、はい!」

「わざわざ二つ名で名乗らなくていい」

「すみませ……」

「謝る必要はない」


 これはもしかして、あれかな。ウチのルールは一発で覚えろ。二度目を言わすなってこと……だろうか。今日は特別に初日だから大目に見てやるというそんなアレだろうか。どうしよう。やっぱり端的に言って、怖い。

 学校で習ったとおり、なんて、社会に出たら通用しない、との先人の言葉が身に染みる。


「ウチは俺がここを空けていることも多くてな。基本的に、桐生について学んでもらうことになる」


 あ、よかった。と一瞬。本当に一瞬、思ってしまったのは顔に出なかったと信じたい。


「はい。ご面倒をおかけすることもあるかと思いますが、どうぞよろしくお願いします」


 ご面倒をおかけすることばかりにならないことを祈るばかりだ。一礼して顔を上げる。


 ――……あれ? 


 笑顔のまま、内心で首を傾げる。あれ。おかしいな。でもこんなものなのかな。

 もう用は済んだとばかりに、所長の視線は書類に戻っていた。あれ。もしかして、あたし、あまり受け入れてもらっていないのだろうか。それとも、これが所長のスタンスなのだろうか。……いや、うん。後者だ。きっと。そう思いたい。

 固まりかけた笑顔のまま、次の挙動ができないでいるあたしに、桐生さんの声がかかる。その声は、間違いなく笑っていた。


「じゃあ、フジコちゃん。最初にこの建物の中を案内するから、着いておいで」

「は、はい! あの、失礼します」


 所長の机から残骸をごく自然に回収した桐生さんがドアに向かう。その後ろを慌てて追いかけながら、なんともシュールだな、と思った。

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