1:いらせませ、紅屋 編

01

[1]


 あぁ、緊張する。

 案内された応接スペースで、二人掛けソファの端っこに直立不動の姿勢で腰かけたまま、あたしは生唾をごくりと呑み込んだ。ひとりきりの空間に、いやにその音が大きく響いた気がして肩を縮こませる。


 ――駄目だ、緊張する。心臓が爆発する。というか、止まる。所長に挨拶するよりも先に死んじゃいそう。


 バクバクの心臓を抱えたまま、皺になりかけていたスカートの裾を指先で伸ばす。スカートの上に揃えて置いていたはずのあたしの指先は、緊張のあまり、いつのまにか布地を巻き込んで拳状に握り込まれていた。


 ――無事に研修生になったお祝いに買ったんだから。大事にしないと。


 グレーのリクルートスーツは、着慣れていない所為か、なんだか胸が息苦しい。足元には同じく新品のリクルートバックに、愛用のクロスボウを収納するT字型リュック。昨晩、寮の玄関でひたすら磨いたローファーは、その甲斐あって新品と言って差し支えない見栄えに進化した。

 国立特殊防衛官育成高等専門学校を卒業した翌日、美容院で整え直したボブカットも、朝、鏡でチェックした時は、見苦しくはなっていなかった……はず。

 せめて見た目だけでも、配属初日の研修生として失礼のない仕上がりになっていると信じたい。


 ――だって、どう考えても、場違いな事務所なんだもん、あたしには。


 なんであたしの配属先が「ここ」になったのだろう、と。何度目になるのかわからない自問を胸中で繰り広げながら、あたしはそっと視線を室内に這わせた。あたしの座っている二人掛けソファの前にはローテーブルがあり、それを挟んで向かい側には一人掛けソファが二脚。その後ろには、あたしが十分ほど前、緊張のあまり倒れそうになりながら叩いたドアがある。パーテーションを挟んで隣の空間は、職場になっているらしく、誰かの話し声が途切れ途切れにずっと響いていた。

 誰か、というか、所長なんだろうけれど。それにしても、いったい、どんな人なんだろう……。

 視線をまた膝元に戻して、あたしはこっそりと息を吐いた。


 国立特殊防衛官育成高等専門学校にて特殊防衛官を目指していた―俗称で言うと、鬼狩り育成学校で鬼狩りを目指していたわけなのだけれど―そんな、ただの学生だったあたしの耳にさえ、ここの事務所の噂は届いていた。

 いわく、全国に二百五十はある鬼狩りの事務所の中でも、五件しか認定されていない最高ランク、特Aの老舗事務所である。

 いわく、所長の天野蒼は、御三家のなかでも鬼狩りの総本家と称される天野一族の出身で、史上最年少の特Aライセンス保持者でもある。

 いわく、副所長の桐生桃弥も、御三家の内の一家、桐生の出身で、鬼狩りの中でもほんの数パーセントしか存在し得ない特Aライセンス保持者である。

 いわく、近年発生した大規模な「鬼」との抗争に置いて、このふたりとその所属事務所「紅屋」の名前が功労者として上がらないものはない。


 ――あとは、なんだっけ。ふたりとも顏も特A級だとか、美少年だとかいろいろみんな言っていたなぁ。そもそも何歳かはあたしも知らないけど、どれほど若く見積もったところで三十路近いだろう人に「美少年」は、盛り過ぎを通り越して失礼じゃないのかとも思うけど。


 あたしの配属先を知るや否、興奮気味に話しかけてきた同期生たちの顔まで思い浮かんで、唇をひっそり尖らせる。

 さすが強運、「ラッキー」だよね、フジコは、と。羨望半分嫌味半分のお言葉を頂戴したけれど、あたしだって言いたい。

 なんでだ。なんで、あたしがここに配属された。

 自慢ではないが、あたしの卒業成績はビリから数えたほうが早かった。開校三十年が過ぎ、広く一般に「鬼狩り」志願者を募集するようになって久しい母校も、なんだかんだで在校生の八割が、多かれ少なかれ「鬼狩り」に連なる血筋の子どもという、家柄重視の古風な世界なのだ。ちなみにあたしは残り二割の少数派。家同士の繋がりやコネは当然のごとく持っていない。おまけに重ねて言うけれど、成績は最底辺だった。

 そんなあたしが、今まで一度も研修生を採っていなかった紅屋に採用された理由とは、いったなんなのか。


 ――なにかの間違いじゃないでしょうか、と思わず確認したあたしに、恭子先生は間違いじゃないから安心なさいって言ってくれたけど。なんというか、なにも安心できない……。


 考えれば考えるほど、胃が痛い。パーテンション越しに聞こえていた小さかったはずの声が、徐々にヒートアップしていっている現状も、よりあたしの胃痛を激しくさせている。怖い。どうしよう、会ってもいないのに、既にして所長が怖い。


 お父さん、お母さん、それから瑛人。今日も仲良く笑っていますか。


 たまらず、頭の中の家族にあたしは手紙調で話しかけた。無論、心の中で、だけど。緊張をほぐすあたしなりのプロセスだ。お父さんとお母さんの優しい顏とあどけない弟の笑顔を思い浮かべると、心が凪いでいくような気分になる。


 お姉ちゃんは、鬼狩り育成学校の第三十期生五十七名のひとりとして無事に卒業することができました。成績はちょっとギリギリだったかもしれませんが、鬼狩りの家系でもなんでもないあたしが入学できたことがまず奇跡と言われた学校です。ぜひ、褒めてやってくださいね。

 と言っても、育成校を卒業したばかりのあたしたちはまだプロの鬼狩りではありません。……正式名称は「鬼狩り」ではなく、「特殊防衛官」なのですが、世間一般には通称が浸透していると思うので、「鬼狩り」とあたしも呼称します。

 そんな注釈はさておき、あたしたちは配属先で研修生として一年間実践訓練を積み、翌年の国家試験に臨まなければならないのです。国家試験に受かれば晴れて鬼狩りのライセンスを取得できる、というわけなのですが……。何の因果か、あたしの配属先は、あたしには恐れ多いエリート事務所なのです。

 それというのも、――。


「ごめんなぁ、フジコちゃん。お待たせして」


 音もなく開いたドアから顔を出した男の人に、あたしは黙考から覚めて、文字通り飛び上がった。


「と、とんでもないです! あ、えーと、あの。本日からお世話になります、藤子奈々です! ……すみません、間違えました! 国立特殊防衛官育成高等専門学校第三十期生、ラッキー☆フジコです!」


 鬼狩りとは、本名ではなく二つ名で活動する職業である。学校で幾度となく教えられていたことを思い出して、言い直す。

 九十度直角にお辞儀したままのあたしには見えなかったが、だが、わかる。間違いなくあたしの二つ名を聞いて、笑いを堪えているだろうことが。

 卒業時に訓練生として登録される二つ名を貰って、早一月。今まであたしの二つ名を聞いて、笑わなかった人間はほぼ皆無なのだった。


「えぇよ、えぇよ。藤子奈々ちゃんのほうで。僕、二つ名で名乗るの、儀礼的であんまり好きとちゃうねん。どうせ、現場でも僕は二つ名で呼ばんし」


 嘲笑を含まない朗らかで優しい声にあたしは感動した。あたしの同期の男ときたら、「おい、ラッキー」と小馬鹿にした呼び方しかしなかったのに。優秀な鬼狩りは、人間性からして違うのだ。


「よ、よろしくお願い致します!」


 感動のあまり挨拶を繰り返したあたしに、その人は、「はい、よろしくお願いします」と小学校の先生のように応じて、着座を勧める。断りを入れてソファに腰を下ろし、そこでようやく、あたしは落ち着いて正面からその人の顔を見た。


「ごめんなぁ、ウチの所長の手がなかなか空かんで」


 人好きのする整った顔に、華やかな笑みが浮かぶ。事務所の経歴からあたしが勝手に想像していたよりも若い。まだ二十代かもしれない。そしてなにより優しそうな雰囲気で、あたしは少なからずほっとした。


「改めまして。僕は桐生。桐生桃弥。一応、紅屋の副所長。と言っても、紅屋は僕と所長のふたりだけやったから、副所長っていうても、使い走りみたいなものやったんやけどね」


 人の噂って、案外、当てになるものなんだなぁ、とあたしはひとつ学習した。色素の薄い柔らかな髪色と瞳に、百八十センチ近くありそうな長身。

 めちゃくちゃ特上の美形かと言われると、自分の顔を棚上げにして悩むところではあるが、文句なしに美形には分類されるだろうご尊顔だ。

 おまけにブラックスーツの襟元に光っているのは、滅多とお目にかかれない特Aランクの記章。青い円の中心部には桃の花が踊り、その周りを五つ星が囲んでいる。


 ――鬼狩りの中でも本当に一握りだっていうもんなぁ。特Aライセンス保持者って。そういう意味では、もはや絶滅危惧種だ……。


 でも、そんな人達と一緒に働くことができることは、恐れ多いけど「ラッキー」なのかもしれない。そんなことを考えながらじっと見つめていると、桐生さんがにこりと目を細めた。やっぱり美形だ。


「あとで、蒼くん……所長から説明があると思うけど、一応、僕がフジコちゃんの教育係。とりあえず、国家試験を受けれるように一年間は頑張ろうね」

「はい! よろしくお願いします」

「ところで、フジコちゃん」

「はい!」

「その面白い二つ名、誰が付けたん?」

「え、……えーと」


 つい数分前の感動を返して欲しい衝動に駆られながら、あたしは視線をせわしなく動かした。けれど、桐生さんは、キラキラとした瞳であたしの答えを待っている。


「フジコちゃん、育成校の出身やんね。お家も鬼狩りに関係するところではないみたいやし。ということは、学校の先生が付けたんやろ? せやのに、なんで『ラッキー☆フジコ』? 育成校出身の子って、花の名前みたいな、そういう無難な二つ名の子が多くないっけ」


 そりゃ、あたしだって無難な二つ名が欲しかったですよ、との本音を呑み込んで、愛想笑いとしか言いようのない笑みを浮かべる。

 二つ名で活動することは儀礼的で好きじゃない、と。桐生さんは切って捨てていたけれど、あたしたち鬼狩りは、本名ではなく二つ名を名乗ることが推奨されている。少なくとも、あたしは育成学校でそう習った。

 二つ名の必要性は「鬼に本名を知られることは災いを招く」という、古来の思想に基づいているそうだけれど。つまるところ現代でも、あたしたちは二つ名とともに生きていかなければならないのだ。その一蓮托生の二つ名をどう決めるかというと、桐生さんの言った通りで。

 旧家出身の人は、その家に伝わる二つ名を使用することが多いのだけれど、あたしのような生徒は、育成校を卒業する際に先生に決めてもらうことが慣例となっている。無論、あたしも無難な二つ名を貰うことになると信じて疑っていなかったのだけれど……。


「『ラッキー☆フジコ』って、なかなかのインパクトやんね。僕、はじめて見たとき、二度見したもん。ほら、あの研修生の登録簿」


 やっぱりあたしの二つ名を見て笑わない人なんていなかった……らしい。『ラッキー☆フジコ』と口にした瞬間、桐生さんの肩が震えたのをあたしは見逃さなかった。いや、いいんですけど。あたしの面白い二つ名が悪いんで、べつにいいんですけど。


「昔から強運なのか凶運なのか分からない人生を送っていまして。あの、『強い運』と『凶悪な運』なんですけど」

「うん、わかる、わかる。大丈夫。それで?」

「死にかけることも多いんですが、いつもギリギリで結局、死なないというか。皆からは不運だと言われるんですけど、あたしとしてはなんだかんだで命はあるし、ラッキーなんじゃないかと思っていて。あの、それで」


 にこやかだと思っていたはずの桐生さんの笑顔が、次第に性質の悪いものに見えてきた。その現実から目をそらしてあたしは続ける。願わくは、今後も含みもない爽やかな笑顔だと思い込んで生きていきたい。


「先生がその話を面白がったのか、無難な二つ名を付ける作業に飽きが来ていたのかは定かではないんですが」


 気が付いたら、こんな二つ名に、なっていました、と。あたしは白状した。あたしだって、卒業が決まって、渡された研修生の登録簿を見て愕然とした。顔写真の下に表記されていたまさかの二つ名に、だ。

 ほかの皆は「楓」とか「紅蓮」とか、和名の格好良いヤツばっかりだったのに。はっきり言って、漢字熟語が乱立する二つ名の中で、カタカナ表記、おまけに星の記号マークまで入っているあたしのそれは相当浮いていた。


「へぇ、面白い先生もおるんやねぇ」

「はぁ」


 あたしとしては面白くなくて一向に構わなかったのだ。だけれども、この二つ名を付けてくれたのが在籍中大変お世話になった大好きな先生だったので、文句を言うにも言えなかった、というわけで。おざなりなあたしの相槌も気にせず、桐生さんがさらりと続けた。


「あぁ、でも、やっぱりフジコちゃん、ラッキーなんかもしれんね、それやったら。その面白い二つ名やなかったら、僕も蒼くんもフジコちゃん採らんかったもん」

「……は?」

「あ、ごめん。フジコちゃん。今のなし」

「ちょ、今のなしって、桐生さん?」


 眼を瞬かせたあたしに、桐生さんはあまりにも軽い一言で爆弾をなかったことにしようとした……けれど、なかったことになるはずがない。


 ――なんであたしが紅屋に採用されたかなんて、全く謎だったけど。分不相応だと思ったけど。その、理由って……。


 二つ名が面白かったから、とかだったらどうしよう。くらりと倒れそうになったあたしの意識を引き留めたのは、パーテーションを飛び越えて響いた罵声だった。


「だから誰が坊ちゃんだ、誰が! 俺はあんたに育てられた覚えは一切、ない!」


 続いて、ガチャンでも、ガン、でもなく、グチャという大きな音が聞こえて、あたしはびくりと肩をすくませた。受話器を叩きつけるにしても、その音は生じようがないのではなかろうかと言いたい、そんな音。


「あの、桐生さん」


 新たな疑念を含んだあたしの視線を受け流して、桐生さんは様子を見にも行かず、慣れたふうに笑った。


「また握り潰したんかなぁ。ウチの所長様、馬鹿力やねん」

「握り、潰した……」


 受話器とは、そんなに簡単に、というか、人の握力で粉砕されるものなのだろうか。


「まぁ、大丈夫、大丈夫。すぐに修理に出すから、フジコちゃんは気にせんで。蒼くんが壊したんは所長用の電話で、もう一機、事務所の内線電話はあるから」


 果たして、そういう問題なのだろうか、と思ったが、そういう問題なのだと思うことにした。あたしに超優秀な鬼狩り様の思考回路も行動原理も読めるはずがない。無の境地で笑ったあたしに、桐生さんもにこりと微笑む。ホストばりの華やかな笑みだ。

 そしておもむろに、


「まぁ、そんなわけで。あれがウチの所長です。よろしくね、フジコちゃん」


と、言った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る