紅屋のフジコちゃん ― 鬼退治、始めました。 ―
木原あざみ
0:プロローグ
序:紅の夜
ぽたぽたと、青い血が降ってくる。つい数十分前、母と「きれいだね」と見上げた星が煌く春の夜空は、「鬼」の血で青く染まっていた。
幼い額に付着した青い血は、眉尻を流れる少女の赤い血と混ざり合い、頬を伝い落ちていく。
「鬼」の血も温かいのだということを、少女は知った。
「死んじゃったの」
少女が呟く。
「みんな、死んじゃったの」
少女の後方では、少女の父と母。そして弟であったものが転がっていた。
彼らの下へ駆け寄る気力もなく、少女はアスファルトに座り込む。その少女の前に、ひとりの影が膝を着いた。
影の顔は見えない。脳裏に焼き付いたのは、彼の指先から滴る「鬼」の血が形成した青い楕円だけ。
殺したのだ、彼が。
少女たちの家族を殺した「鬼」を、彼の手はいとも簡単に貫いた。あともう少しだった、と少女は思った。
あともう少し、彼が早く来ていれば、父も母も死ななかったかもしれない。せめて、弟だけでも死ななかったかもしれない。
あともう少し、彼が現れなければ、自分がひとり取り残されることはなかった。
少女の傍らには、ぐちゃぐちゃに潰れたプレゼントがある。子ども部屋の天井と壁を星一面に染めるはずだった、家庭用のプラネタリウム。ねだって買ってもらったプレゼントは、帰宅してから弟と一緒にリボンを解くつもりだったものだ。今日は、少女の十歳の誕生日だったのだ。
鼻を付いた生臭い匂いに、少女の意識はたらればから現実に舞い戻った。そして、匂いの正体を知る。影が「鬼」の血に塗れた指先を動かしたのだ。彼が少女に提示したのは、ライセンスだった。
「防衛省 特殊防衛幕僚監部 特殊防衛隊所属、特殊防衛官、――きみには『鬼狩り』と言ったほうがわかりやすいだろうか」
影が告げた俗称は、少女もよく知るものだった。少女が生まれる数十年前に「鬼」なるものが出現したこの世界は、幾度の戦火と調停を経て、人間と「鬼」は共に生きるようになった。学校で現代史として学んだ内容だ。
先生はなんと言っていたっけ。少女は考える。ちょうど先週の小学校の授業で、「鬼狩り」の仕事について改めて勉強したのだ。
特殊防衛官の皆さんは、私たち人間と「鬼」が仲良く共存していくための要となる役割を果たしていらっしゃいます。言わば、人間と「鬼」のお巡りさんですね。
「鬼」のなかには恐ろしい凶暴性を持って、私たち人間を襲うものもいます。けれど、すべての「鬼」がそうではありません。私たちと仲良くしたいと思っている「鬼」もたくさん存在します。
一般的に「鬼」が人間を襲う事案の発生率は、人間が人間を襲う事件の発生率と変わらないとされています。つまり、普通に生活をしていれば、恐ろしい事件に巻き込まれることは滅多とないということです。もしもの際は、「鬼狩り」の皆さんが助けてくれます。だから皆が必要以上に「鬼」を怖がる必要はありません――。
だったら、と感情の麻痺した思考で思う。だったら、これは、雷に撃たれるような凶運で、あたしたち家族はたまたま襲われたということなのだろうか。そうしてたまたま、宝くじに当たるような強運で、間一髪であたしは救われたのだろうか。
「きみの家族を襲った『鬼』は、B+というレベルの『鬼』で、前科があった。その『鬼』が出現したという緊急通報があって、ここに来た」
「鬼」、「B+」、「前科」、「緊急通報」。処理しきれない単語が少女の中で回る。わからないままぐるりと動かした視線の先に、鬼に叩き潰された箱が見えた。
中身は大丈夫だろうか。そんな無意味なことが気になった。もう、星は見れないかもしれない。あぁ、でも、と少女は思った。今ここで確認するのはきっと非常識なのだろうなぁ。
少女の頭はいやに冷静で、悲しみや恐怖や怒りや、そういった感情はどこかに消えてしまっていた。ただ、ひどくぽっかりとした穴が開いている。虚無が口を開いて待っている。少女が落ちて来るのを。
「間に合わなくて、すまない」
その「鬼狩り」は、少女よりもずっと悲壮な声で頭を下げた。なんで彼がそんな声を出すのか、意味がわからなかった。いなくなったのは少女の家族で、影の家族ではない。これからひとりになるのは少女であって、影ではない。
ひとりになる。
少女はぞっとした。ひとりになる。ひとりになる。誰もいない。誰もいなくなった。
あたしは幸運だったのだろうか。ひとり生き残ったあたしは。
詮無いことを考えながら、少女は握りしめた拳に視線を落とした。今になって、手の甲が小刻みに震え始めている。誕生日のお出かけだから、と。精一杯のおしゃれとして選んだ薄桃色のフレアスカートに、青と赤が染み込んでいる。滑稽だった。
父と母と弟が倒れている。助けてあげなければならない。いつまでもこのままでいいはずがない。
そのすぐ傍では「鬼」であったものが、青い血を流して絶命していた。「鬼」の普段の姿かたちは人間と大きく変わらない。本性を現した瞬間に瞳が紅く染まり額から角が生える。そうして、個体によっては、恐ろしい姿に変貌するものもあるという。
少女たちを襲った折、二メートル以上の巨大な化け物だった「鬼」は、少女の父と変わらない背丈に戻っていた。角もない。流れている血の色が赤ければ、人間と言って差支えのない姿だった。
「死んじゃったら、みんな同じだね」
無意識に、そんな言葉が少女の口をついた。
きっと、この「鬼」にも、「鬼」の死を悼むものがいるのだろう。少女の父と母、弟の死を悼むものがいるように。
「みんな、死んじゃった」
頬をなにかが伝う。少女の血ではない。鬼の血でもない。涙だった。
「みんな、いなくなっちゃった」
やっと胸に落ちた喪失感に声が震える。また一粒、涙が流れ落ちた。影はなにも言わなかった。遠くでサイレンの鳴る音がする。だんだんと喧騒が近づいてくる。滅多とない重大事件。「鬼」による大量殺人。大きな人の声と、救急車。そして特殊防衛隊の緊急車両。赤と青の中心で肩を震わせる少女を、影はただ見ていた。
もう、星も見えない。父も母も弟も、きらめく光を、瞳に灯すことはない。もう、なにも見えない。
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